明けの明星が輝く空に 第55回 『GODZILLA ゴジラ』
ギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』がいよいよ日本でも公開されたが、その評価は大きく分かれているようだ。例えばネット上のレビューの中には、「この映画を低評価する人は怪獣映画が分かっていない」なんていう意見もあった。当ブログ『明けの明星が輝く空に』で、4年半近くも“特撮愛”を語ってきた僕にとって、これはなんとも由々しき問題である。というのも、僕は今回の『GODZILLA ゴジラ』を観て、面白いとは感じなかったからだ。
まず思ったのは、主役としてのゴジラの存在感が薄いこと。これは、登場時間が短いこととは関係ない。何よりもまず、怖くないのだ。今回のゴジラは、人類を敵とはみなしていなかった。もちろん味方というわけでもなく、「眼中にない」というのが正しい。その巨体ゆえ、海から上がってきただけで高波を引き起こし、歩いただけで街を破壊してしまうけれど、それはゴジラにとって不可抗力に過ぎない。彼は、人類に直接攻撃を仕掛けることはなかった。
人類にとっての脅威という意味では、むしろ敵怪獣であるムートーの方が印象に残りやすい。これは考えてみれば当然のことかもしれない。最後はゴジラがムートーを倒し、“結果的に”人類にとっての救世主的役割を果たすのだけれど、それにはまずムートーにインパクトを持たせるのが常道だからだ。特にこの映画の前半は、ムートーを中心に話が進行している。あのままムートー対人類という内容で物語を終わらせても、十分映画として成立していたに違いない。
ただ“結果的に”ということであったにしろ、ゴジラは救世主として行動した。ならば、それなりの存在感を持たせてもよかったとも思う。たとえば、2005年公開のピーター・ジャクソン版『キング・コング』で、恐竜に襲われたヒロインを助けに現れたコングのように。あのコングはなんとも頼もしかった。もちろん設定の違うゴジラに、同じことをやれとは言えない。もし同じことをやれば、なんとも安っぽいゴジラになってしまう。でも何か違ったやり方で、印象に残る場面は作れなかったものか。
救世主がかっこよく見えるのは、絶体絶命のピンチにどこからともなく現れ、登場人物が、そして観客が、「助かった!」と思うときだ。それらしきシーンはこの映画にもあることはあった。だけど、どういうわけか、コングのように印象には残るものではなかった。エドワーズ監督は、ゴジラにヒーロー性を持たせたくなかったのかもしれない。
というのも、監督本人が言うように、今度のゴジラは自然の脅威の象徴だからだ。これは日本で言うところの、「荒ぶる神」だろう。荒ぶる神は人に災いをもたらすこともあり、いわゆるヒーローとは違う。ただし、ゴジラに十分な“荒ぶる感”があったとも思えない。特撮作品における荒ぶる神と言えば『大魔神』の大魔神を思い出すが、ゴジラよりも大魔神の方がよっぽど怖かった。人々を救うため悪人を退治している大魔神を見ていると、なぜだか恐怖心が湧いてくる。「悪いことをすると誰でも同じ目に遭う」と、心の奥底で感じるからだろう。
今回のゴジラは上でも触れたように、不可抗力で街を破壊するだけで、人類に対して鉄槌を振り下ろすわけではない。高波のシーンにしても、映像はすぐに進撃を続けるゴジラに切り替わってしまい、高波が襲った後の様子を具体的に見せることはない。もちろん、津波の被害を受けた日本の人々の心情を考慮した、ということもあるだろう。ただしそれでは、ゴジラに自然の恐ろしさを体現させることは難しい。本当に自然の脅威を映画のメッセージに盛り込みたいのであれば、いったんゴジラを海へ帰し、高波に飲まれた街の様子を丁寧に描くべきではなかっただろうか。思い出してほしい。本田猪四朗監督は戦後間もない1954年公開の『ゴジラ』で、焼け野原となった東京を描き、戦争の悲惨さを伝えようとしたのだ。
【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている
【最近の私】『GODZILLA ゴジラ』をさっそく見てきた。一番テンションが上がったのは、まず東宝のロゴがスクリーンに出た時だった。早くも製作が発表された続編に期待するとしよう。
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