“広島県安芸区中野町”
少し前になってしまったが、今年も甲子園で全国高校野球選手権大会が開催された。ベスト4を懸けて沖縄尚学高校と三重高校が対戦したが、沖縄尚学は惜しくも9-3で敗れた。戦いの後、恒例の甲子園の土を選手が袋に詰める姿がテレビに映し出された。1972年に沖縄が日本に返還される前、沖縄の選手たちは、この甲子園の土を故郷に持ち帰ることを許されず、帰途途中の船から土を海に捨てさせられた。試合に負けた悔しさを土と共に袋に詰めて、また甲子園を目指す励みとすることすらできなかったのだ。私がこの大会で必ず沖縄代表校を応援する理由は、大好きな沖縄を先祖の故郷とする親しい友人がハワイに何人もいるからだけでなく、そんな沖縄の歴史への想いがあるからだ。
甲子園の土は、一般の人には意味を持たない物かもしれないが、選手たちにとっては青春の汗と涙を含んだ大切な“憧れの土”だ。“広島県安芸区中野町”。これも特になんの意味も持たない地名だが、私にとっては、ハワイでお世話になったあのヨコヤマさんのお父さんの故郷であるということだけで、大きな意味を持っている。沖縄尚学の選手が甲子園の土を袋に詰めるのを見ながら、私はそんなことを考えていた。
リチャード・ヨコヤマさんのハワイでのルーツ、ニウリイへの旅を終え、日本に帰って1年ほど経っても、私は『広島県安芸区中野町が父さんの故郷』というシマダさんの言葉が忘れられなかった。そこで思い切ってこの地を訪れようと決心し、ついでに以前から気になっていた、ハワイへ多くの移民を出した山口県周防大島も訪れることにした。(前回を参照)
周防大島を回ったあと、いよいよヨコヤマさんの父親、亀吉さんの故郷へと向かった。宮島街道を東に車を走らせると、広島電鉄の「五日市駅」という看板が目に入った。ここはヨコヤマさんの甥、ジョージの父親の満田さんの故郷だということを聞いていたので、「五日市」の駅の写真を記念に1枚。
そしてさらに東へと走っていくと、「安芸中野」という駅にたどり着いた。ついに“安芸”
“中野”という名が付く場所にやって来た。この駅でもパチリと1枚。
安芸区中野町は当然この近くに違いない。しかしどちら方向へ進めばいいのか全く分からず、駅前の交番に尋ねた。おおよその方向を聞いてさらに車を走らせる。道はどんどん狭くなり、地元の人しか通らないような路地に入り込んだ。しかし、これ以上は車では無理という道幅になったので引き返すことにし、記念にそこにあった道路標識をまたもやパチリと1枚。
その周辺は、地方のごくありふれた住宅街だった。この地を訪れる前には、漠然と山間の畑や農家などを想像していたが、たどり着いた場所にはアパートや小さな一軒家がごちゃごちゃと立ち並んでいた。ヨコヤマ亀吉さんがかつて住んでいたころの様子などは、もちろん全く想像できなかった。ただ言えることは、当時亀吉さんは、豊かな暮らしを送っていたわけではなかっただろうということだ。周防大島の人々がそうだったように、日本での生活が大変だったから思い切ってハワイへ移住したに違いない。今からおよそ1世紀前の、亀吉さんの勇断だった。
そして亀吉さんは、ハワイ島のサトウキビ畑で必死に働きながら、写真花嫁(第8回を参照:PCのみ http://jvtacademy.com/blog/co/hawai/2010/10/post-6.php)でやって来たヤエさんとの間に子供を9人もうけた。今やその子供や孫たちはハワイ郡の土木検査官、看護師、高校の教師、医師など、ハワイ島で重要な役割を担っている。
私は心の中で亡くなったヨコヤマさんに語りかけていた。『あなたのお父さん、亀吉さんの故郷に、とうとうやって来ましたよ』 広島県安芸郡中野町を訪れたことで、私はハワイでかつてあれほどお世話になったリチャード・ヨコヤマさんに、ほんの少しだけれど恩返しができたような気持ちになった。
Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】
現在、ハワイ島ではマウナケアから噴出した新たな溶岩が、パホアの町に向かって流れている。パホアには、このブログにもかつて書いたクボさんが住んでいる。心配だ。次回はこのことに関して書くつもりだ
第49回 瀬戸内のハワイ
第48回 ついに見つけたヨコヤマさんのルーツ
第47回 ハワイの“ローハイド”たち
第46回 王家の谷の静寂を乱したのは・・・
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