第53回 『やさしいHawai’i』
【最近の私】「カクレキリシタン」という言葉に惹かれ、九州五島列島3泊4日の旅へ出かけた。この「カクレキリシタン」についてはまだまだ分からないことばかりで、これから勉強したいと思うが、それより、ほとんどお年寄りばかりの島の疲弊に強く心が痛んだ。「地方創生」は緊急の大きな課題だ。
あれからもう20年以上経つ。
ある土曜日の朝。家族の誰も出かける予定がなかったので、のんびりとベッドの中でうつらうつらしていた時だった。ふと右の胸に何とも言えない軽い痛みを感じた。気にしなければそのまま通り過ぎてしまうような、かすかな痛み。ちょっと気になってそこに手をやると、指にコリコリとしたものを感じる。最初は『これはいったい何だろう?』と不思議に感じながら、その一瞬あと、『これはもしかして・・・』。
それまで乳癌検診を受けたことがなかった。マンモグラフィーが痛いという人の言葉に、ずるずると1年伸ばしをしていたバカな私。疑いを持った私はすぐに受診の準備をした。最寄りの病院は荻窪病院。インターネットで調べると、偶然土曜日に乳腺外科専門の先生の診察があるではないか。
受診の結果、触診の段階ですでに「これは乳癌ですね」と断定。さらにマンモグラフィーを受け、はっきりと診断が下された。頭の中が真っ白になった。迎えに来てくれた夫に車をしばらく停めてもらい、その中で私は10分間泣いた。思い浮かんだ言葉は“無念”の一言だった。こんな時おそらく誰もがそう思うだろう、「なぜ私が・・・」と。
手術は9時間におよび、手術室から出てきた私の顔は、多量の出血のため土色をしていたそうだが、その後は順調に回復した。退院は7月7日の七夕。この日が私の新しい誕生日となった。あれから本当に多くのことを学んだ。健康であることのありがたさ、命には限りがあること、だからやれるうちにやりたいことは何でもやる。
それから半年過ぎ、私は無性にハワイへ行きたくなり、あわただしく日本を飛び立った。夫は仕事があるので来られなかったが、ちょうど春休みだった二人の息子が一緒についてきてくれた。以前お世話になった日系二世の方々はみなさんまだ健在で、空港にはヨコヤマさん夫婦が以前と変わらないやさしい笑顔で、レイを持って迎えてくれた。「おお、ヨークン、大きくなったのう。おおシュンスケか。みんな元気でよう来たよう来た」。私は泣きそうになった。
ヨコヤマさんは相変わらずの強引さで、私と2人の息子をホテルには泊めず、自宅へ連れ帰った。病後間もなかったので、できたらホテルでゆっくりしたかったが、もちろん断るなんてできない。でもそれでよかったのだ。滞在中はヨコヤマ一族が入れ代わり立ち代わり会いにきてくれ、にぎやかな毎日が続き、私は癌のことなど思い出す暇もなかった。
健在とはいえ、すでに80歳近いヨコヤマ一族には、それぞれ抱えるものがある。ヨコヤマさんは前立腺癌、奥さんのツルさんと娘のジャン、妹のシマダさんは糖尿病で毎朝耳から採血し、お腹にインシュリンを注射している。ほかのメンバーもいろいろと問題を
抱えているのに、誰一人として下を向いて生きている人はいない。笑顔を絶やさず、大いに笑い、週末には全員集合で大いに食べ、本当に前向きに人生を楽しんでいるようだった。
ヨコヤマさんは前立腺癌のため3時間以上の長距離運転は無理ということで、シマダさんがピンチヒッターとしてヒロからコナまで私たち3人を連れてロングドライブをしてくれた。島の西海岸の溶岩の中を、コナに向かってまっすぐ走る途中、ハイウェイの脇にある、「88マイル」の標識の前でシマダさんは車を止めた。そして「将来、アツコさんたちに幸せが訪れるように願っているからね」と、息子2人に白い珊瑚を集めさせ、そのサインのそばにそれを積むように言った。冷えたハワイの溶岩は真っ黒な色をしているが、その溶岩の中に、あちこちに白い珊瑚が散らばっている。ハワイの人は幸運を願って、珊瑚を集めて高く積んだり、溶岩の上に並べて自分のイニシャルの文字を書く。それに加えシマダさんはやはり日系人なので、日本で末広がり、幸運を表す『八』が重なる「88マイル」の場所に、珊瑚を積むように言ったのだ。
大好きなみんなに再会し、ハワイの空気を胸いっぱいに吸って、私は再び生きる勇気をもらった。それまでは新聞を読んでいても、ページに「ガ」や「ン」の文字を見るとすぐに落ち込んでいた私。ハワイで1週間を過ごしているうちに、そんな自分を愚かと感じられるようになっていた。あれから20年、私は今も人生を大いに楽しんでいる。
私を大きく変えてくれたハワイ。そこに住む人々、流れる空気、緑の木々や美しい花、真っ赤な溶岩、それらすべてが私を癒し、力を与えてくれた。本当にやさしいハワイ。それがこのブログのタイトルの所以だ。
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。