やさしいHawai’i 第54回 「8月6日」
【最近の私】東海道徒歩の旅が終わった。完歩したのは仲間で3人。私は33行程の中で3か所の参加のみだった。そして今度は甲州街道徒歩の旅が始まる。果たしてどれだけ参加できるか。明日は16キロを歩く。
暑い毎日が続く中、今年もまた終戦の日がやってきた。毎年この時期になると思い出すことがある。
「私の誕生日はね、広島にアトミックボムが落ちた8月6日、そして夫のジョーの誕生日は、パールハーバーに日本が攻めてきた12月8日よ」というシマダさんの言葉だ。
どういう偶然か夫婦の誕生日がそれぞれ、日本とハワイ(アメリカ)が太平洋戦争を始めた日、そして終わるきっかけになった日となってしまったのだ。今年もまた8月6日の朝8時に、私はハワイのシマダさんに電話をした。「ハッピーバースデイ!!」と言うと、シマダさんは「私の誕生日を覚えていてくれたのね。私はまだまだ元気よ。今年で92歳になったけど、頭はまだしっかりしている。トウキョウのアツコさんのことも、ちゃんと分かるよ」と嬉しそうだった。しかし、しばらく話をして電話を切る段になると、その声は涙声に変わっていった…。
数年前ジョーが亡くなった時、私はシマダさんのことが心配でヒロを訪れた。大きな家に1人ぼっちになってしまったシマダさんは、「夕方になるとね、アツコさん、私、寂しくて寂しくて…。」そう言って涙を浮かべていた。私は1週間シマダさん宅に泊まり、少しでも役に立ちたいと車でドクターに連れて行ったり、食物の買い出しをしたりした。6時ごろ私が朝食を作っていると、糖尿病のシマダさんは毎朝耳から採血して血糖値を測り、お腹にインシュリンを注射していた。
あれから数年たった現在、シマダさんはケアハウスと呼ばれる住宅に住んでいる。数人の日系人が各ベッドルームを1人1部屋ずつ使い、フィリピン人一家が彼らのお世話をしている。ケアハウスには政府から補助が出るが、そのかわりに、個人の財産を持つことは許されない。そこでシマダさんは、夫のジョーが亡くなってしばらくすると、自宅をジョーの甥に売った。そしてそのお金はシマダさんの兄、故ヨコヤマさんの甥のジョージ一家が預かり管理をしている。
私は昨年再びハワイを訪れた。ジョージとエミ夫婦は私を連れて、ヒロのダウンタウンからさらに車で20分ぐらいの静かな住宅街の中にあるケアハウスに、シマダさんを迎えに行った。そこは前庭にきれいな花が咲き乱れた、大きな一軒家だった。
シマダさんは歩行器を頼りに、背筋をしゃんと伸ばしてゆっくりとドアから姿を見せた。その毅然とした姿は、たとえケアハウスでお世話になっていても、日系二世としての誇りを忘れていないよ、と語っているように感じた。そばにはケアハウスでお世話をしているフィリピン人の年配女性がついている。シマダさんは私の顔を見て、「おお、アツコさん、アツコさんね。私、目が悪くて(長く糖尿病を患った影響が目に現れた)、顔はよく分からないけれど、声でわかる。アツコさんでしょ。よく来てくれましたね」そう言って私を強く抱きしめた。
「ジョージはね、とってもやさしいのよ。毎週私を車で迎えに来てくれて、ランチをして、ショッピングをするの。ジョージはほんとにやさしいのよ。エミもよくしてくれる。私は本当に幸せ。でもね、こんなふうに人の世話になるなんて、私は思ってもみなかった」
そんな言葉を聞いてジョージは「若いころ、私は親に心配ばかりかけて、孝行をしなかった。もっとやさしくしてあげればよかったと、今ではとても後悔している。そんな気持ちがあるから、アンティ(叔母さん)ヨシコには、やさしくしてあげたいと思う」と語っていた。
ハワイは主に6つの島から成る州だ。ビジネスの中心はホノルルがあるオアフ島。だからどうしても若い世代は故郷の島を離れ、オアフ島に行く。日本で地方の若者が東京を目指すのと同じだ。オアフ島でビジネスをしているシマダさんの一人息子も、仕事を犠牲にしてハワイ島へ帰ってくるつもりはないようだ。だからシマダさんはヒロ在住の甥や姪に頼らざるをえない。幸運なことにシマダさんには多くの姉妹がおり、ジョージ一家のように、やさしくお世話をしてくれる人に囲まれているが、高齢化が抱える問題はどこの国でも同じようだ。ただハワイでは、日本で失われつつある若者の高齢者へのいたわりがそこここで見られる。移民としてハワイへやって来た日系一世の大変な苦労を、二世は直接目の当たりにして成長したからだ。そして現在のハワイでの多くの日系人の成功は、そういう人々の苦労の上に成り立っていることを、若い世代はしっかりと理解している。彼らにとって何よりも大切なのは家族の絆なのだ。
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
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