【コラム】JUICE #22「ベルリンの壁崩壊とボウイ&フランプトン」●黒澤桂子
1989年11月9日のベルリンの壁崩壊から30年。壁の一部は、今も歴史的建造物として残されている。冷戦時代は言論の自由もなく、すべてが厳しく規制されていた東側で、西と東の境界付近に住む東側の若者たちは、西側のラジオの電波を受信してロックなどを聴いていたという。そんな中で、デヴィッド・ボウイが1987年6月に西ベルリンの壁の近くで行った野外コンサートは、歴史を変える重要なきっかけの1つとなった。東西を分断していた壁の前に私も実際に立ってみて、ボウイのこのコンサートや彼の曲『ヒーローズ』がどんな意味を持っていたのかを体で感じ、深く感動したのを覚えている。壁の存在すら知らない世代が多くなっているので、少しお話ししたい。
2016年1月10日にボウイが亡くなった時、ドイツの外務省は、異例の追悼ツイートをした。
Good-bye, David Bowie. You are now among #Heroes. Thank you for helping to bring down the #wall. https://t.co/soaOUWiyVl #RIPDavidBowie
— GermanForeignOffice (@GermanyDiplo) 2016年1月11日
「壁の崩壊に力を貸してくれてありがとう」とはどういうことなのか? 1987年6月6日、ボウイは、西ベルリンのライヒスターク(国会議事堂)前の広場で野外ライブを行った。ロック・フェスティバルの一環で開催されたこのライブは、ボウイの新アルバム『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』を中心にした、「グラス・スパイダー・ツアー」の一部でもあり、その巨大なセットとシアトリカルな構成が注目されていた。そしてこのアルバム制作とツアーには、ボウイの少年時代からの友人で、1970年代後半にスーパー・スターだった、ピーター・フランプトンがリード・ギターで参加したことでも話題になっていた。
ボウイはこの時、全スピーカーのうち、その4分の1ほどを会場の聴衆ではなく、壁側/東ベルリン側に向けて設置、さらにレコード会社などとも協力して、コンサートをラジオでライブ放送し、壁の向こう側の人々が聴けるようにしたのだ。コンサートで彼は、「今夜はご存じのように、僕たちにとってとても特別な夜です」と英語で言った後に、ドイツ語で「この壁の反対側にいる我々の友人たちのために幸せを祈ろう」と応援メッセージを送った。この夜、西側の会場には8万人の観客が、東側の壁の付近には5000人ほどが集まっていた。壁の反対側で、人々が歓声を上げたり歌ったりしていたのがボウイには聞こえたという。
2003年の『ローリング・ストーン』誌のインタビューで、ボウイはこの時を振り返り声を詰まらせた。
It was one of the most emotional performances I’ve ever done. I was in tears. There were thousands on the other side that had come close to the wall. So it was like a double concert where the wall was the division. And we could hear them cheering and singing from the other side. God, even now I get choked up. It was breaking my heart and I’d never done anything like that in my life, and I guess I never will again. It was so touching.
このライブの中でも歌った『ヒーローズ』は、ベルリンの壁で会う恋人たちを描いた曲で、ボウイが70年代後半に西ベルリンに住んでいた時に書き、壁の近くのスタジオで録音し、リリースしたものだ。
When we did “Heroes,” it felt anthemic, almost like a prayer. I’ve never felt it like that again. That’s the town where it was written, and that’s the particular situation it was written about. It was just extraordinary. I was so drained after the show.
『ヒーローズ』の歌詞には、壁を越えて亡命しようとする人たちを警備兵が銃で撃つ場面も出てくる。
I, I can remember (I remember)
Standing, by the wall (by the wall)
And the guns, shot above our heads (over our heads)
And we kissed, as though nothing could fall (nothing could fall)
また、歌詞には、「I, I wish you could swim / Like the dolphins, like dolphins can swim」という一節があるが、なぜ唐突に「イルカみたいに泳げたらいいのに」とあるかというと、壁を越えシュプレー川を渡って西側に逃げようとする人々が溺死したこともあったからだ。
この日、東側の警察は、ライブを聴くために集まった人々に退去命令を出すも若者たちがそれに従わないため、逮捕したり、武力行使に出たりしたという。翌日のジェネシスのコンサートに向けて、当局はさらに厳重な警戒態勢・武力で挑んだことで、当初はただライブを聴きたいだけだった人々の怒りが爆発し、その後のデモや暴動の発端になったといわれている。
ベルリンの壁崩壊のアンセムともなった『ヒーローズ』や、ベルリンでのライブ映像などをご覧ください。
『ヒーローズ』公式ビデオ
ベルリンでのライブの模様と、ボウイのドイツ語のメッセージ
5分5秒くらいのところで、ボウイはフランプトンを紹介(この時フランプトンは音符2つ分だけ自身のヒット曲『ライク・ウィ・ドゥ』を弾いてくれる)した後で、メッセージを始める。
日中のセット設営風景とサウンド・チェック
ライヒスタークとの位置関係などがよく分かる。後半のサウンド・チェックでは、黒いコートを着て左側にいるのがボウイ。フランプトンの姿は見えないが、声は聞こえる。ボウイが消えた後、一瞬だけ現われる青いジャケットを着た人物がフランプトン。
サウンド・チェック
黒いコートを着て左側にいるのがボウイ。青いジャケットを着て右側にいるのがフランプトン(ソロ演奏もある)。フランプトンは途中でテックの人と舞台裏に移動してしまうが、声は聞こえる。
* * *
ボウイと一緒にこの歴史的なライブを行ったフランプトンだが、今年2月、難病を患っていることを公表した。今月から10月半ばまでフェアウェル・ツアーをするので、ここでフランプトンのことを紹介したい。
ピーター・フランプトン
イギリス生まれ。7歳からギターを始め、12歳頃からバンド活動を開始。15歳で、ローリング・ストーンズのビル・ワイマンがプロデュース/マネージするバンドに参加。ワイマンは、自身がプロデュースするほかのレコーディングにもフランプトンをセッション・ギタリストとして起用。「ピーター(フランプトン)の演奏は驚くべきもので、ギター・ソロもすばらしかった。そのレコードやデモを聞いた誰もが、このギタリストは誰? すごいね、と言っていたよ」と語る。フランプトンは16歳で人気グループ、ザ・ハードに入るも、アイドル扱いに嫌気がさし、18歳でスティーヴ・マリオットと共にハンブル・パイを結成。その活動の傍ら、ジョージ・ハリスンなどのレコーディングにもギタリストとして参加。21歳でハンブル・パイを辞めソロになる。最初のソロ・アルバムには、リンゴ・スターなどが参加した。
数枚アルバムを出した後、1976年1月にリリースした2枚組みのライブ・アルバム『フランプトン・カムズ・アライヴ!』が、世界中で爆発的な売り上げを記録し、2月にアメリカでゴールド・ディスク認定、4月にはプラチナ・ディスク認定を受けるとともにビルボードで1位を獲得、合計10週で1位となり、94週にわたりチャートにランクされ、当時、史上最も売れたライブ・アルバムとされた。このアルバムは今なお売れ続けていて、2011年時点でアメリカで8xプラチナ認定(800万ユニットを売り上げたレコードに授与される認定)を受け、CBSニュースでは、これまでに世界で1800万ユニットを売り上げていると報道していた。ちなみに、このアルバムのライナー・ノーツは、当時、『ローリング・ストーン』誌のライターだったキャメロン・クロウが書いている。
2枚組みアルバム『フランプトン・カムズ・アライヴ!』を手に持つボウイ
『フランプトン・カムズ・アライヴ!』は、1976年4月10日付けビルボード・チャートで1位になった
『ローリング・ストーン』誌のカバーに。記事はどちらも、後に映画監督となったキャメロン・クロウが書いている。表紙にあるサインは、筆者がクロウ監督に会ったときに直接もらったもの
『フランプトン・カムズ・アライヴ!』に収録され、大ヒットした『君を求めて』
まもなく始まるフェアウェル・ツアーでは、全米とカナダを回り、9月にニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンで、10月初めにロサンゼルスのザ・フォーラムでコンサートを行う。その翌週のツアー最終日は、『フランプトン・カムズ・アライヴ!』の大半を録音した思い出のベイ・エリアで迎えるべく、サンフランシスコ郊外にあるコンコード・パビリオンでライブを行い、ツアーを終了する。
<あまり知られていないエピソード>
・フランプトンの父親オーウェンは、ボウイの美術教師で、フランプトンは学校に入学する前から父親にボウイの話を聞いていた。ボウイがギターやサックスを演奏するとか、親友に殴られて目に大けがをしたとか(このためボウイの左目はほとんど見えず、瞳孔が開いたままになっているので、左右で目の色が違うように見える)、眉毛を剃り落として登校したとか。フランプトンは12歳で同じ学校に入学後、毎日、昼休みになると、15歳のボウイと、その親友ジョージ・アンダーウッド(自分の彼女に横から手を出したボウイに怒って殴ったら目に当たり大けがに。後にアーティストとなり、ボウイのアルバム・カバーをいくつか手がけた)と一緒にギターを演奏したりした。学校にギターを持っていくことを勧めたのはフランプトンの父親で、3人の楽器を職員室に預かってくれたという。
1987年の「グラス・スパイダー・ツアー」時の写真。左から、ボウイ、ボウイの教師だったオーウェン・フランプトン、フランプトン
・フランプトンが15歳の時に参加していたバンドは、ローリング・ストーンズのドラマーだったトニー・チャップマンのバンド。ワイマンはチャップマンの紹介でストーンズに入った。早くからワイマンにギターの腕を認められていたフランプトンは、ワイマンの家によく行ってギターを弾いたり、相談をしたりしていたという。ワイマンもフランプトンをライブに連れていったりしていたが、まだ子どもなので門限があり「シンデレラみたいに夜11時までには家に帰さなければならなかった」と語っている。
・1970年代前半、グランド・ファンク・レイルロードは、フランプトンにバンドに加入しないかと誘ったことがあった。その事実を、ドン・ブリューワーが明かし、フランプトンもそれを認めた。グランド・ファンクの前座としてハンブル・パイが一緒にツアーをしたこともあり、フランプトンのギターや曲作りの実力などを皆がよく知っていたので声をかけたとのこと。
・ローリング・ストーンズのミック・テイラーが脱退した時、後任ギタリスト候補の中にフランプトンの名前も挙がっていたことを、ワイマンが自著などで明かし、ストーンズも『MOJO』誌のインタビューで語っている。フランプトンもこの話を耳にした時に、ミック・ジャガーにそれは本当だったのかと尋ねたところ、本当だと言っていたとのこと。同誌のインタビューで、ジャガーは、フランプトンを含む6人ほどの候補者のことをとても真剣に検討していて、彼らをセッション(事実上のオーディションだが本人たちにはそうとは知らせずに)に呼んで、バンドと一緒にプレイした感じやパーソナリティなどをみたと言っている。ワイマンは、自分とイアン・スチュワート(ストーンズのキーボード)は、フランプトンがいいと思ったが、ストーンズには「too pretty」だったな、と語っていた。結局、ロン・ウッドに決定。
・『フランプトン・カムズ・アライヴ!』の大半は、サンフランシスコにあったウィンターランドという有名な会場で収録されたものだが、このライブにはマイク・マイヤーズやウディ・ハレルソンが来ていた。マイヤーズは後に、自身の主演映画『ウェインズ・ワールド2』(1993)の中で、『フランプトン・カムズ・アライヴ!』を手に持って「”Frampton Comes Alive!”? Everybody in the world has “Frampton Comes Alive!” If you lived in the suburbs you were issued it. It came in the mail with samples of Tide.」と、アルバムの社会現象的なメガヒットぶりを表現して観客を笑わせた。映画にはフランプトンのヒット曲『ショー・ミー・ザ・ウェイ』も使われている。
・フランプトンは、キャメロン・クロウの映画『あの頃ペニー・レインと』(2000)で、テクニカル・アドバイザーを務め、映画の中の架空のロック・グループ、スティルウォーターが演奏する曲のうち2曲を書いてレコーディング。ロック・スター、ラッセル・ハモンド役のビリー・クラダップにギターを教えた(ラッセル役は当初ブラッド・ピットが演じる予定だった)。また、ハンブル・パイのロード・マネージャーとしてカメオ出演。
* * *
フランプトンは、ギターが完璧に弾けるうちはレコーディングは続けるし、来年もまだ調子がよければ、ヨーロッパ・ツアーや、単発のライブを考えると言っているので、期待したい。今年は、壁崩壊の30周年記念だけでなく、ボウイの『スペイス・オディティ』が、来月、リリース50周年を迎えるというのに、ボウイがもうここにいないのが本当に悲しい。
最後に、『スペイス・オディティ』を1990年の東京ドームでのライブ映像でお楽しみください。
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Written by 黒澤桂子
くろさわ・けいこ●ロサンゼルス支社所属。LA校の留学生を同伴してハリウッド・スターの突撃取材に行くことも。その一部は、LA校のFacebookの写真アルバムで紹介されている。スターとのツーショットや、もらったサインは、東京校とロサンゼルス校に展示中。「スターに会ってみたい方は、ぜひLA校留学をご検討ください!」
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