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【コラム】JUICE #65「たまには物語のない世界へ」●屋鋪桂子

【コラム】JUICE #65「たまには物語のない世界へ」●屋鋪桂子

古いHDDの中身を整理していたら『アメリカン・アイドル』の映像が出てきて、懐かしさのあまり作業そっちのけでリバイバル上映会を始めてしまった。『アメリカン・アイドル』は言わずと知れた、2000年代を代表するメガヒット・オーディション番組である。私が翻訳者として携わった思い出の案件でもある。
 

オーディション番組の面白さは、エピソードが進むにつれ固定されていくメンバーの中で、“押しメン”を見つけるところにあるとも言える。でも私は、シーズン序盤の一次審査が好きだった。アメリカンドリームを目指して集まった何万という人々、その一人ひとりに物語があった。歌手を夢見る幼い少女からテレビに映りたいだけの仮装した男性まで。無数の物語の一部をつまみ食いしてるようなお得感があった。
 

映像翻訳者は、日々いろんな物語に携わる。フィクション、ノンフィクション、つまらない話、興味深い話、どんな物語であれ、真摯に寄り添う。「このセリフに裏の意味はある?」「監督が表現したいものは?」「この演出の意図は?」登場人物、監督、脚本家、演出家、あらゆる人物を憑依させ、深く深く入り込む。オーディションの一次審査で不合格を言い渡され泣き出す女の子を、モニター越しの冷ややかな目で見ていては、いい字幕は作れない。その子を自分に憑依させることで、嗚咽まみれで絞り出されたひと言の恨み節に、説得力のある字幕をつけることができる。
 

あるシーズンで、アルコール依存症の男性が一次審査にやって来た。職を失い、妻に逃げられ、でも手元に残った幼い息子に誇れる自分であるために歌いたいと言う。彼の美しい歌声に審査員は涙し、与えられた称賛に彼は涙し、もちろん私も涙した。
 

ただし、共感力を研ぎ澄まし物語に寄り添い続ける映像翻訳者は、次第に疲弊していく。この世は物語であふれている。映画やドラマのフィクションは消化が追いつかないほど提供され、ノンフィクションでは暗い話題ばかり。テレビをつければ感染者数と死亡者数が繰り返し報道されるとんでもない世界になってしまった。共感力の高い者ほど擦り切れてしまう。映像翻訳者ではなくても、暗い話題を忘れられるどこかに逃げ込みたくなる時があるだろう。では、「物語のない世界」とはどこにあるのだろうか?
 

「物語のない世界」とは、「頭をカラッポにできる単純な反復作業」のことだと私は思う。そして、その世界に逃げ込める趣味を、映像翻訳者はひとつ備えておくことを提唱したい。
 

ひとりで、場所を選ばず、手軽に行えて、無心になれて、いつまででも続けていられる、そういったモノが相応しい。生産性など求めなくていい。例えば、ケン玉。玉を皿に載せ続ける動作はかなり近いと思う。頭もカラッポになりそうだし、その気になればいつまででも行える。ただし「カンカンうるさい」と苦情が寄せられる可能性がある。例えば、ゲーム。RPGやあつ森などは論外だが、ゲームボーイのテトリスなら単純作業で無心になれそうだ。ゲームボーイのドクターマリオではダメだ。マリオという世界的に有名なキャラが登場し、薬を投与される私とマリオのストーリーが始まってしまう。とても意味深だ。やはりテトリスの無機質なブロックとロシア民謡の単調なBGMあたりが何のストーリーも始まらなさそうで相応しいかもしれない。
 

ちなみに私の「物語のない世界」は編み物だ。指先で糸を紡ぐだけの反復作業。翻訳で煮詰まった時は糸と編み棒を手にする。ひとしきりチクチクした後は、こんがらがった思考もほぐれている。毛糸でブランケットを編み終えたので、夏に向けてレース編みを始めた。生産性を求めているわけでもないのに、思いの外大作になりそうな予感がしている。
 

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Written by 屋鋪桂子
 

やしき・けいこ●MTC(メディアトランスレーションセンター)の映像翻訳ディレクター。2007年4月期に英日映像翻訳科を修了。トライアル合格後、フリーランスを経て現職。

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