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中島唱子の自由を求める女神 第9話 太陽へ向かうひまわり 

中島唱子の自由を求める女神
Written by Shoko Nakajima 

第9話「太陽へ向かうひまわり」
言語の壁、人種の壁、文化の壁。自由を求めてアメリカへ。そこで出会った事は、楽しいことばかりではない。「挫折とほんのちょっとの希望」のミルフィーユ生活。抑制や制限がないから自由になれるのではない。どんな環境でも負けない自分になれた時、真の自由人になれる気がする。だから、私はいつも「自由」を求めている。「日本とアメリカ」「日本語と英語」にサンドウィッチされたような生活の中で見つけた発見と歓び、そしてほのかな幸せを綴ります。

国際結婚でアメリカに暮らす私も移民の一人である。多民族がひしめくニューヨークの街で暮らしていると、貧富の差、そして人種の壁も肌で感じる。

移民の人たちは帰る故郷があり、自ら望んでアメリカで暮らす人たちが多い。しかし、難民の人たちは想像を絶する環境下に身を置きながら、望んでいないのに故郷を追われてしまう。帰る場所を失うということは、自分の今まで生きてきたルーツまでもが奪われてしまう。生きていく権利まで脅かされる。移民の人とは大きく違う。

JVTAで「難民映画祭」の字幕翻訳者の公募を目にしたとき、通り過ぎることができなかった。何か心の中を突き動かされる思いがあって、勇気を振り絞ってこのプロジェクトのトライアルに挑戦した。そして、ミラクルな結果で翻訳チームとして参加できた。そして、運命的な作品に出会えたのである。

永遠の故郷ウクライナを逃れて

「In The Rearview」(邦題:永遠の故郷ウクライナを逃れて)というポーランド出身のマチェク・ハメラ監督の作品である。

ロシアのウクライナ侵攻から3日後、ポーランド出身の監督はバンを購入し、避難する人々の支援を開始することを決意した。後部座席では、避難するウクライナの人々が肩を寄せ合って座り、それぞれの物語を語りだす。

私が担当したパートには、二組の子供を連れて避難する家族が登場する。その中にベラという7歳の女の子とサーシャという4歳の男の子が乗り合わせた。

ベラは年の離れたお兄ちゃんがいて、とても頭の回転がいい。兵役で翌日入隊するという父親に見送られて、母親とお兄ちゃんと一緒に同乗してきた。父との別れも気丈に振舞い、周りの空気の読める女の子だった。サーシャは地図にも載っていないほどの小さな村に住んでいた。大家族と暮らしていてたのだろうか、別れ際に、家に残った祖母はサーシャを抱きしめてお別れすると、遠くから泣きながら彼を見送る。車中から捉えた映像には控えめに泣く祖母の姿があった。そして、この男の子の表情がスクリーンいっぱいに映し出された。無言の表情をカメラがずっととらえている。一枚のポートレイトの絵画のように美しく、繊細にカメラが追っている。この間何も台詞がない。カメラ越しのマチェク監督の震える心が伝わってくる。とても切なく、苦しい。

幼いながらもこの二人は、小さな体と心で、戦争をうけとめている。次は生きて会えないかもしれない。大好きな家族と引き裂かれる。巨大な魔物である「戦争」と彼らも闘っているのだ。

監督はインタビューの中で、映像を最初に編集したときは3時間にも及ぶ仕上がりだったが観やすい長さにするために半分以下の84分に編集したと話している。

砲撃の危険の中、車中で語ってくれた出来事を余すことなく使いたかっただろう。監督にとったら身を削られるような思いで編集したに違いない。

時折、車窓からみた風景が流れるように映し出される。攻撃をうけて退廃した建物や橋、田園風景、青い空と冬の樹々。光る海。愛する故郷を眺める車中の人たちの心情と重なるように風景が映し出される。その風景がストーリーの行間になっていて叙情詩のように美しい。

想像を絶するほどの環境の中で、危険な目に遭遇しながら避難しているのであろう。砲撃もある。地雷も埋められている。いつロシア軍に襲撃されるかわからない。避難民を乗せた車ごと飛ばされる危険性もあったに違いない。しかし、この作品にはそんなシーンは一切ない。人々の物語に焦点をあてたかったからだ。ウクライナの人々が自分の身に起きた体験を世界に通じる窓のようにカメラの前で語りだした。そして、戦争を知らない私たちに、戦争がどれだけ残忍で極悪の暴力であるかを伝えようとしてくれている。

平和学者ヨハン・ガルトゥング氏は「『平和』の対義語は『暴力』である。」と論じている。戦争は究極の暴力である。そして、難民の人たちは虐待や貧困、飢餓という暴力にもさらされている。また、他者への不寛容や偏見、無関心も「文化的暴力」であると定義する。誰の中にも根付く暴力が私たちの中にもある。

世界の各地でこうした暴力を、私たちと同じ人間がうけているという大事なことをこの難民映画祭が教えてくれた。

「人の心の痛みを感じとる力」こそ、混沌としたいまの時代に求められている平和に近づく大きな一歩だと思う。すべての作品が私たちにそう語りかけている。

今年も大きな感動を呼んでいる難民映画祭。この映画祭の意義は大きい。ウクライナの大地で太陽に向かって咲く「ひまわり」のように力強く、私たちの心に平和の種を届けてくれる。

★第19回難民映画祭の上映作品『永遠の故郷ウクライナを逃れて』の字幕翻訳チームに参加

第19回難民映画祭:映像翻訳を学び、奇跡の反戦映画と出会えたー中島唱子さんインタビューはこちら

『永遠の故郷ウクライナを逃れて』 中島唱子さんによるレビューはこちら

第19回難民映画祭・マチェク・ハメラ監督: 映画「永遠の故郷ウクライナを逃れて(原題In the Rearview)」にかける想いはこちら

※翻訳チームの中島唱子さんと青井夕子さんが記事制作のための翻訳に協力

第19回難民映画祭 

オンライン開催 2024.11.7(木)~11.30(土)

公式サイト:https://www.japanforunhcr.org/how-to-help/rff

Written by 中島唱子(なかじま しょうこ)

1983年、TBS系テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』でデビュー。以後、独特なキャラクターでテレビ・映画・舞台で活躍する。1995年、ダイエットを通して自らの体と心を綴ったフォト&エッセイ集「脂肪」を新潮社から出版。異才・アラーキー(荒木経惟)とのセッションが話題となる。同年12月より、文化庁派遣芸術家在外研修員としてニューヨークに留学。その後も日本とニューヨークを行き来しながら、TBS『ふぞろいの林檎たち・4』、テレビ東京『魚心あれば嫁心』、TBS『渡る世間は鬼ばかり』などに出演。

◆バックナンバーはこちら
https://www.jvta.net/blog/5724/

中島唱子の自由を求める女神 第8話 Long Shadow 今も私の心の中で輝き続けるひと

中島唱子の自由を求める女神

中島唱子の自由を求める女神
Written by Shoko Nakajima 

第8話「Long Shadow 今も私の心の中で輝き続けるひと」
言語の壁、人種の壁、文化の壁。自由を求めてアメリカへ。そこで出会った事は、楽しいことばかりではない。「挫折とほんのちょっとの希望」のミルフィーユ生活。抑制や制限がないから自由になれるのではない。どんな環境でも負けない自分になれた時、真の自由人になれる気がする。だから、私はいつも「自由」を求めている。「日本とアメリカ」「日本語と英語」にサンドウィッチされたような生活の中で見つけた発見と歓び、そしてほのかな幸せを綴ります。

「理念よりもリアリティーを」「虚像よりも実像を」「事実よりも真実を」今も忘れない山田太一さんの脚本は闇をも光に変えてくれる不思議な力があった。

1983年テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』のオーディション会場で私ははじめて山田太一さんにお会いした。私はその時、まだ高校生だった。

もし、私があの時、山田太一さんに出会っていなければ、俳優にはなっていなかっただろう。まさしく、人生が一変した瞬間だった。浮き沈みの激しい世界の中で地味ではあるが俳優の仕事を続けてこれたのも、山田さんのおかげだ。「あの時、あの子を選んでよかった」と言ってもらいたくて「“岩”にかじりついても、いい役者になろう。いい仕事をしよう。」とデビューからいままで、どんな役でも、必死に取り組んできた。

「どうこのセリフを言うかではなく、なぜこの台詞なんだろう。」そう脚本と対峙することを教わり、演出家からは徹して「役の存在感とリアリティー」を求められた。その経験は、今も変わらない役へのアプローチになっている。

デビューしてから30周年の節目の時、私はお祝いのどら焼きをもって、山田さんと赤坂TBSの近くの喫茶店でお会いした。元気な山田さんにお目にかかったのはその時が最後となってしまった。

その後の10年間は激動だった。パンデミックが襲い、テレビや映画、舞台までも大きな打撃を受けた。撮影が止まり、劇場も閉鎖され、この間人々の生活様式すら変わってしまった。

俳優しか経験のない私が日本映像翻訳アカデミー(JVTA)で映像翻訳の修業をはじめたのは、ちょうど2年前のコロナ禍の時だった。基礎クラスをロサンゼルス校で受講し、JVTA東京校の実践コースを修了した。授業に参加することを目標に、必死に事前課題に取り組んだ。エクセルもZIPファイルも知らない、昭和のアナログ世代の私にはわからないことだらけで、ある意味無謀な挑戦だった。言葉と格闘した時間も映像字幕の細かいルールも、ただ、新しいことを知っていく喜びと嬉しさで毎回の授業が楽しかった。

英日実践コースを無事に修了した時は、プロの翻訳者という山の頂も見えている気がして、現実味に溢れていた。しかし、トライアルの結果がでる度にその希望も消えていく。あれだけ必死に学んだ映像翻訳の字幕のルールも手の平からポロポロと落ちていく。自主学習で復習するしかないのに、気持ちだけ焦り、「プロになるのは難しい、私には無理な挑戦だ。」頭をよぎるのはやめるための様々な言い訳のオンパレードだ。

2023年11月29日。恩師である脚本家の山田太一さんが逝去した。

私が英日の実践コースを修了したわずか、1カ月後の訃報だった。

何度かお手紙を書いて近況をお知らせしようか迷っていた。でもきちんと結果を出してから報告すべきだという躊躇いもあって、もしトライアルで合格してプロになれたら、必ず報告しようと心に決めていた。私の新しい挑戦に、山田さんはキラキラした目ですこし驚いて、きっとあの優しい笑顔をみせてくれるだろうか?もっと、会いたかった。報告したかった。そして、たくさんの感謝を伝えたかった。その時からこの1年間。私はもっと深いところで、山田さんを思い出し、語りかけ、何かを問い続けている気がする。

そして、いまもあの時から報告したかった字幕翻訳に挑戦している。

私が山田作品に出会っていなかったら、映像翻訳に辿り着いていなかっただろう。一つの作品を通して字幕に向き合い、役者として山田作品から教えてもらった言葉の重みをひしひしと感じている。これからも私の側で励まし続けてくれる山田さんの声が聴こえる。

「唱子さん、挫折こそ、宝物だよ。挑戦こそ、あなたを輝かすエネルギーだよ。」

沈みかける太陽が背後から光を放ち私の前に大きな影となって現れる。

山田さんの存在は私の目の前をいつでも照らしてくれるLong Shadowとなって大きな力を与えてくれている。だから、私は言葉の力を信じてこの山を登り続ける。山田さんの笑顔が鮮明に見えるその時まで。

★第19回難民映画祭の上映作品『永遠の故郷ウクライナを逃れて』の字幕翻訳チームに参加

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第19回難民映画祭・マチェク・ハメラ監督: 映画「永遠の故郷ウクライナを逃れて(原題In the Rearview)」にかける想いはこちら

※翻訳チームの中島唱子さんと青井夕子さんが記事制作のための翻訳に協力

第19回難民映画祭 

オンライン開催 2024.11.7(木)~11.30(土)

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Written by 中島唱子(なかじま しょうこ)

1983年、TBS系テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』でデビュー。以後、独特なキャラクターでテレビ・映画・舞台で活躍する。1995年、ダイエットを通して自らの体と心を綴ったフォト&エッセイ集「脂肪」を新潮社から出版。異才・アラーキー(荒木経惟)とのセッションが話題となる。同年12月より、文化庁派遣芸術家在外研修員としてニューヨークに留学。その後も日本とニューヨークを行き来しながら、TBS『ふぞろいの林檎たち・4』、テレビ東京『魚心あれば嫁心』、TBS『渡る世間は鬼ばかり』などに出演。

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中島唱子の自由を求める女神 第7話「小さい山を越えた時、巨大な山も見えてくる」 

中島唱子の自由を求める女神

中島唱子の自由を求める女神
Written by Shoko Nakajima 

第7話「小さい山を越えた時、巨大な山も見えてくる」
言語の壁、人種の壁、文化の壁。自由を求めてアメリカへ。そこで出会った事は、楽しいことばかりではない。「挫折とほんのちょっとの希望」のミルフィーユ生活。抑制や制限がないから自由になれるのではない。どんな環境でも負けない自分になれた時、真の自由人になれる気がする。だから、私はいつも「自由」を求めている。「日本とアメリカ」「日本語と英語」にサンドウィッチされたような生活の中で見つけた発見と歓び、そしてほのかな幸せを綴ります。

 

「なんでもいいから、一生懸命やればいい」何をやっても不器用で取柄のない私に祖母はそういって励ましてくれた。

 

17歳の春。私は週末に通っていた児童劇団を休会して、たこ焼き屋さんのアルバイトをしていた。同じ高校に通う宮城先輩も少し前から、そこでバイトしていて私に丁寧にたこ焼きの焼き方を教えてくれた。不器用な私は、火力とたこ焼きの返しがうまくいかず、何度も焦がしてマスターに怒られた。マスターは店のカウンターでクレープを焼いている。マスターの母でもある店長さんも加わって家族経営の小さいお店だった。仕事の出来ない私をマスターは三日目でクビにしようとしたが、店長さんが止めてくれた。「唱ちゃんと働いているとなかなか会えない孫とすごしているようで楽しいの」と言って私をかばってくれる。

 

週末になると買い物帰りのお客さんで店先がいっぱいになる。店長さんが優しく教えてくれたから、ソフトクリームの巻き方も、レジ打ちも間違えないようになって一挙にお客さんが押し寄せてきても落ち着いて対応ができた。肝心のたこ焼きも焦がさないでふっくらと丸く焼けるようにもなった。

 

半年が過ぎた頃、バイト先に私が現れると開口一番にマスターが声をかけた。

 

「9万8650円なんだと思う?」私はそんなお金盗んでいないし、勘定ミスにしては額が大きい。首をかしげていたら、「唱ちゃんがね、昨日売り上げた金額だよ。」と嬉しそうに店長さんが笑っている。「仕事ができるようになったね。」と厳しいマスターがはじめて褒めてくれた。バイトの帰りあまりにも嬉しくて、名古屋にいる祖母に駅の公衆電話から電話した。

 

「なんでもいいから、一生懸命やれば、人が応援してくれる」と電話の向こうで祖母も嬉しそうだ。

 

まもなくして、休会していた劇団から連絡があった。ドラマのオーディションの話だ。

 

すっかり、たこ焼き屋のアルバイトに夢中だった私は、劇団のことも忘れていた。休会していたのにオーディションだけ受ける訳にはいかない。退会するつもりでお断りしたら、もう書類審査は通過しているからオーディションだけでも参加してほしいといわれた。

 

「2分間アピールの課題があるから、考えといて」と最後にそれだけ言って劇団のマネージャーは電話を切った。

 

 2分間も自分をアピールすることがあるだろうか?勉強も運動も苦手な平凡な高校生である。

 

「けん玉チャンピオン」だとか、「ミルク早飲み」とか、そういったびっくり芸も私にはない。

 

バイトの店先で、「自己アピール」を考えながら、たこ焼きを焼いていた。目の前のたこ焼きがまん丸と焼けてきて、鉄板の上で踊っているようで可愛いらしい。ふっくらとした姿にワクワクしていたら、「これよ。これ。あなたが自慢できることは、これよ。これ。」天の声が降りてきて私の耳元で囁いた気がした。今の私には、自慢できることはこれしかない!そう思えたら、希望が湧いてきた。

 

テレビ局で行われる最終オーディションの前日。いつもと変わりなく、たこ焼き屋で働いていたら、店長さんがやってきてしんみりと私に声をかけた。「唱ちゃん、ここで働くのが、今日が最後になっちゃうわね。なんか、淋しいわ」

 

スタンドのカウンターの隅でクレープの皮を焼いていたマスターがその会話をきいていて、こう言った。「唱ちゃんは、かならずそのオーディションに合格するよ。」

 

さらに、店長さんは眉毛を下げて淋しそうだ。「たこ焼きはね、どんな不器用な人間も大体3日で上手に焼けるようになる。けど、唱ちゃんは半年かかっただろう?」いつになくマスターはゆっくりとした口調で続けた。「最後まで、諦めずにやり切れる人は、必ずチャンスをつかめるよ。」妙なマスターの確信が嬉しかった。そして、ワサビの効いたかっぱ巻きを食べた時のように鼻にツンときて、感動で今にも泣きそうだ。

 

オーディション当日。緊張する心を落ち着かせながら、マスターの言葉を思い出すと勇気が湧いてくる。

 

オーディションでの「2分間自己アピール」の番が刻々と近づいてくる。

 

「次は5番の方どうぞ」私はマイクの前に立ち、生まれてはじめて強いスポットライトの中にいた。

 

「私はまだ、平凡な高校生で何ひとつ自慢することはありません。ただ、一つ自信があることは…『たこ焼きを丸く焼くこと』です」と言い放ち、私は審査員の前でたこ焼き屋さんのパフォーマンスをした。

 

ドラマ『ふぞろいの林檎たち』が放送されたのは今から40年前。私のデビューの作品になった。このドラマの最終回は、私が演じた谷本綾子がたこやき屋さんでアルバイトをしているシーンが登場する。

 

オーディションの合格発表が、集まった記者の前で行われた。脚本家の山田太一さんの横に座り様々な質問が飛びかった。

 

そんな時、山田さんが手にしていたオーディションの時の候補者の資料が目に入った。他の候補者の中の備考欄は細かい文字でびっしりメモされていたのに、5番の私の欄だけはほとんど真っ白で四文字だけ、「たこ焼き」と記されていた。

 

「なんでもいいから、一生懸命やればいい。」幼少期の祖母の言葉が、何事も長続きしないで諦めてしまう私を変えてくれた。小さい山でも越えていくとき、いままでにない景色が見えてくる。

 

写真Written by 中島唱子(なかじま しょうこ)
 1983年、TBS系テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』でデビュー。以後、独特なキャラクターでテレビ・映画・舞台で活躍する。1995年、ダイエットを通して自らの体と心を綴ったフォト&エッセイ集「脂肪」を新潮社から出版。異才・アラーキー(荒木経惟)とのセッションが話題となる。同年12月より、文化庁派遣芸術家在外研修員としてニューヨークに留学。その後も日本とニューヨークを行き来しながら、TBS『ふぞろいの林檎たち・4』、テレビ東京『魚心あれば嫁心』、TBS『渡る世間は鬼ばかり』などに出演。

 
 

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中島唱子の自由を求める女神 第6話 暗黒の転校生

中島唱子の自由を求める女神

中島唱子の自由を求める女神
Written by Shoko Nakajima 

第6話 暗黒の転校生
言語の壁、人種の壁、文化の壁。自由を求めてアメリカへ。そこで出会った事は、楽しいことばかりではない。「挫折とほんのちょっとの希望」のミルフィーユ生活。抑制や制限がないから自由になれるのではない。どんな環境でも負けない自分になれた時、真の自由人になれる気がする。だから、私はいつも「自由」を求めている。「日本とアメリカ」「日本語と英語」にサンドウィッチされたような生活の中で見つけた発見と歓び、そしてほのかな幸せを綴ります。

 

『なぞの転校生』というドラマが一世を風靡した時、私はまだ小学生だった。三歳上の姉は夢中になって再放送を観ていたが、私は怖いホラー話と勘違いし初回で観るのをやめてしまった。
 

この番組の影響か、学期が始まる頃やってくる転校生たちは、「謎の人物」として注目される。新興住宅地に住んでいたせいか、学期ごとに数人の転校生がやってくる。このドラマの影響でしばらくは、特殊な能力をもっていて学校を引っ掻き回す人物なのではないか?とヒソヒソと生徒は噂した。数週間もすれば、その噂もなくなり、クラスに溶け込んでしまう。いいにつけ、悪いにつけ「転校生」という存在は注目されてしまう。私は遠目から「転校生」にだけはなりたくないと思っていた。
 

7歳の頃、両親が離婚。生まれた町の柴又を離れて、父が新興住宅地に建売住宅を購入した。千葉の畑に囲まれた小さい家で父方の祖母といっしょに暮らしだした。ところが、14歳の夏、父が狭心症でわずか42歳で他界してしまう。その日を境に、私の生活環境が一変していく。それは私が恐れていた「転校」と音信不通だった母との暮らしだった。
 

東京の学校に転校したのが、中学生の秋だった。急な転校で制服が間に合わず、私だけ田舎の学校のセーラ服を着て登校して垢ぬけない。新しい環境で学校にも母との暮らしにも馴染めずにいた。故郷に帰ってしまった祖母のこと、亡くなった父のことを思いながら、一人隠れて泣いていた。10代ではじめて感じた巨大な喪失感と孤独。いろんな感情を押し殺しながら暮らす日々は、マンホールの中に突き落とされたような「暗黒の世界」である。気が付くと毎日地面ばかりをみつめて歩いていたように思う。
 

ある日、教室でいつものように下を向いて座っていると、机の角をコツコツ叩く小さい手が見えた。顔をあげると、クラスの中でも目立たない二人組の女の子だった。「理科室へ一緒に移動しない?」と誘ってくれたのだ。新しい学校で最初にお友達になってくれたおーちゃんと岸べぇだった。
 

学校の帰り道も公園のブランコで夕方までしゃべった。「おーちゃん、早く帰らないと家の人心配するよ?」と訊くと、「ううん。今日はお母さんが夜勤でね。妹とお留守番なの」と言って日が暮れるまで一緒にいてくれた。おーちゃんの家は母子家庭で看護師のお母さんは夜勤で働いている。岸べぇは習い事で忙しくて、一緒に公園にいけないことをとても残念だと言っていた。 

 

おーちゃんに、私の複雑な家庭環境を公園で打ち明けた日。「ショーコも、いろいろと大変なんだね」とブランコをゆっくり揺らしながら話を聞いてくれた。あの日の出来事は鮮明に覚えている。あかね色の夕焼けに反射したおーちゃんのさらさらした髪の色と優しい顔は一生忘れない。いつしか心を開いていろいろな話をしていたら、淋しかった心に光が差し込んできて元気になった。

 

なんでもない私の話にも「ショーコは、本当におもしろいね」とケラケラ笑う二人。教室の中で一番地味だった二人がいつも笑っている姿に周りの生徒が寄ってきた。他のクラスからも「ショーコ、いる?」と休み時間に廊下に呼びだされ、「面白い話をしてよ」と催促されてしまう。違うクラスの人から友達申請が殺到しても、おーちゃんと岸べぇは、「ショーコが人気者になってくれて嬉しい」と友達が増えていく度に喜んでくれた。
 

中学校の卒業式が近くなり。父兄や生徒を集めての大きなイベントで演劇をやることになった。ある日、生徒会のメンバーがクラスにやってきて、主要の出演者として参加してくれないか?とキャスティングされてしまった。演目は『回転木馬』。私は主人公・ビリーをいじめるマリン夫人の役だ。
 

リハーサルの時は、悪役なんて嫌だと思っていたのに、いざ、舞台に立ち芝居をした途端に我を忘れて激しい気性のマリン夫人になる。無我夢中で違う人間を演じる時、自分の中のマグマが噴き出したような衝撃を覚えた。抑圧された感情が溢れ出す。演じながら、本来の自分が解放されていく心地よさは今まで体感したことない歓びだった。
 

芝居を終え、大きな拍手に包まれて舞台を降りた瞬間に体が震えだし、心身共に高揚感に包まれた。終演後は、他のクラスの友達が興奮を伝えるために一挙に私の周りに集まってきた。
 

その輪から離れた会場の出口の隅っこでこの光景を嬉しそうにみているおーちゃんと岸べぇ。しばらくして、人だかりがいなくなるのを待って、二人は私のもとに来て満面の笑みで「ショーコの演技すごく感動したよ。クラスに転校してきた時から、ショーコはそういう才能のある人だとずっと思っていたよ。」とおーちゃんと岸べぇはちょっと、涙目で笑っている。会場の体育館に、西日が差して二人の顔がオレンジ色に輝いている。その姿があまりにも優しくて私も思わず泣いてしまった。悲しみの涙ではない。感動の涙である。
 

「暗黒の転校生時代」を、おーちゃんと岸べぇの存在で救われた。大人になった今でも、真っ赤な夕焼けに遭遇するとあの時の二人の優しい顔を鮮明に思い出す。さりげない一言であっても、一生を決める「励ましの言葉」になる。この二人が臆病な私の背中を押してくれて「演劇」という重い扉をあけてくれたのだ。
 

写真Written by 中島唱子(なかじま しょうこ)
 1983年、TBS系テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』でデビュー。以後、独特なキャラクターでテレビ・映画・舞台で活躍する。1995年、ダイエットを通して自らの体と心を綴ったフォト&エッセイ集「脂肪」を新潮社から出版。異才・アラーキー(荒木経惟)とのセッションが話題となる。同年12月より、文化庁派遣芸術家在外研修員としてニューヨークに留学。その後も日本とニューヨークを行き来しながら、TBS『ふぞろいの林檎たち・4』、テレビ東京『魚心あれば嫁心』、TBS『渡る世間は鬼ばかり』などに出演。

 
 

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中島唱子の自由を求める女神 第5話「空振りのメトロカード」

中島唱子の自由を求める女神

 

中島唱子の自由を求める女神
Written by Shoko Nakajima 

第5話 空振りのメトロカード
言語の壁、人種の壁、文化の壁。自由を求めてアメリカへ。そこで出会った事は、楽しいことばかりではない。「挫折とほんのちょっとの希望」のミルフィーユ生活。抑制や制限がないから自由になれるのではない。どんな環境でも負けない自分になれた時、真の自由人になれる気がする。だから、私はいつも「自由」を求めている。「日本とアメリカ」「日本語と英語」にサンドウィッチされたような生活の中で見つけた発見と歓び、そしてほのかな幸せを綴ります。

 

「10トークン、プリーズ!!」ニューヨークで暮らしだして、一番初めに私が覚えた英語のフレーズである。
この街に住む限り、地下鉄とバスを乗りこなせないと暮らせない。

 

ニューヨークの地下鉄の利用は複雑である。東京の地下鉄並みに東西南北に入り組んでいる。

 

週末になるとあちらこちらで改修工事が行われダイヤが乱れる。そして、ニューヨークは電車での飲み食いは当たり前。ダンス集団が乗り込んできてアクロバットやポールダンスのショーが始まったり、バンドが楽器ごと乗り込んできて演奏が始まったりもする。ちょっと楽しい気分で、興味本位に一緒に盛り上がると、ショーの後、投げ銭を催促されてしまう。決して、無料のショーだと思ってはいけない。妙に空いている車両だと思って、乗り込んだら、ホームレスが座席でお昼寝中。一挙に異様な匂いが漂よって、一駅ごとに、乗客が逃げていく。まさしく、ニューヨークの地下鉄はカオスそのものである。

 

新居が決まって、部屋が整ったころ、語学学校に通いだした。月曜日から金曜日までの集中クラスである。
高校卒業以来、学校とは無縁の生活だった。早起きして、通勤の人たちと電車に乗り込み学校へいく。何気ない日常をニューヨークで体験できることが嬉しかった。街のスピードや慌ただしさが体感出来て心は一挙にニューヨーカーに近づいていく。足元はスニーカーで、トレンチコートを着込み、新聞片手にウォール街に向かいたくなる。

 

そんな夢心地な気分で最寄りの駅に向かっていると、背後から「唱子ちゃん!」と元気な声が聞こえた。振り返ると大きな笑顔の美代子さんだ。
美代子さんも職場に向かう途中で駅の改札で一緒になった。
「トークン」をポケットから取り出し、それを見ていた美代子さんが「あら、ヤダ~唱子ちゃん。まだトークン使っているの?私はもう、コレよ」とメトロカードを顔の脇にかざして得意顔である。

 

トークンとは切符の代わりの仮想貨幣の事で、一円玉よりやや大きく、五円よりも小さい。
開札口をくぐるときにこのコインを投入すると入り口のバーが一人分動く。

 

ニューヨークの地下鉄の開業は1904年。日本がまだ、明治の時代である。開業から長いことこのトークンが切符がわりになっていたのが、1994年にメトロカードが誕生した。翌年の95年には一挙に普及した。今思うと、当時は、地下鉄の長い歴史の大きなターニングポイントの時期だったのかもしれない。

 

学校の帰り道、メトロカードを早速購入してみた。改札口でカードをスライドさせて入場するが、なかなかバーが開かない。何度もエラーとなり、その日はあきらめてポケットに入っていた残りのトークンを使って電車に乗った。

 

翌朝、また最寄りの駅の改札で美代子さんを見かけた。もう構内で電車を待つ美代子さんに向かって大きくメトロカードかざしながら、ニューヨーカー気分でカードをスライドさせる。全身の体重でバーを動かそうとしても、「Go」の緑のサインが点灯することなく、バーが動かない。
その様子を見ていた美代子さんが、「唱子ちゃん、カードをスライドさせるのが速すぎるのよ。もう少しゆっくり。」美代子さんの助言どおり、ゆっくりとスライドさせてみても、やはりバーは開かない。
「遅すぎる。もう少しだけ早く。」もうその時点で冷や汗が噴き出し、もはやどのスピードでメトロカードをスライドさせているかもわからない。半ばパニックである。後ろを振り返ると、舌打ちしてイライラしているニューヨーカーたちが「ふえるわかめちゃん」のように一挙に増幅していく。そこからはもう真っ白な状態で、やっと改札口のバーが開いてくれた。
美代子さんは、構内のプラットホームでお腹を抱えて笑っている。冬なのに、顔から汗がどっと、噴き出した。「ニューヨーカーは一日にして成らず」そんな言葉を心の中でつぶやきながら、プラットホームに入ってきた通勤電車に乗り込んだ。

 

混みあう車内の中で人々に背を向けて、窓際に立った。コートのポケットからハンカチを取り出し額の汗を拭く。ふと車窓の外に目を向けると、平行して走る列車が見えた。真っ暗な地下鉄の中を加速する急行列車だ。
すれ違う列車の窓から、車内の様子が、まるで映画のモンタージュのように私の目の前を流れていく。一枚として同じ風景がない。様々な人種の人たちがひとつの塊(かたまり)となって移動していく。まさしく「ニューヨーク」を象徴する風景に心が奪われた。 

メトロカードを三振してしまった私も、今、ニューヨーカーたちの大きな塊(かたまり)の中にいる。私たちを乗せた電車は、急行に追い抜かれながらも、ゆっくりとダウンタウンへと南下していく。

 

写真Written by 中島唱子(なかじま しょうこ)
 1983年、TBS系テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』でデビュー。以後、独特なキャラクターでテレビ・映画・舞台で活躍する。1995年、ダイエットを通して自らの体と心を綴ったフォト&エッセイ集「脂肪」を新潮社から出版。異才・アラーキー(荒木経惟)とのセッションが話題となる。同年12月より、文化庁派遣芸術家在外研修員としてニューヨークに留学。その後も日本とニューヨークを行き来しながら、TBS『ふぞろいの林檎たち・4』、テレビ東京『魚心あれば嫁心』、TBS『渡る世間は鬼ばかり』などに出演。

 
 

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中島唱子の自由を求める女神 第4話 「川の匂いと大きな笑顔」

中島唱子の自由を求める女神

中島唱子の自由を求める女神
Written by Shoko Nakajima 

第4話 川の匂いと大きな笑顔
言語の壁、人種の壁、文化の壁。自由を求めてアメリカへ。そこで出会った事は、楽しいことばかりではない。「挫折とほんのちょっとの希望」のミルフィーユ生活。抑制や制限がないから自由になれるのではない。どんな環境でも負けない自分になれた時、真の自由人になれる気がする。だから、私はいつも「自由」を求めている。「日本とアメリカ」「日本語と英語」にサンドウィッチされたような生活の中で見つけた発見と歓び、そしてほのかな幸せを綴ります。

 
新しい街で部屋を探して住みだすとき何故か、ワクワクする。ましてや、外国での家探しは格別だ。ウディ・アレンの映画に出てくるような廊下の長い古いアパートに住んでみたい。倉庫を改造したロフトも魅力的だ。あれこれ物件を見て歩いているうちに、現実が見えてきてそんな憧れが遥か彼方へと飛んでいく。もちろんお金さえ払えば夢のような物件は存在するが、留学生の私には手が届かない。賃貸の契約も学生や外国人ではなかなか審査が通らないので、ルームメイトやサブレットで入居するしかないのだろう。
 

空き部屋率が1%だというマンハッタンの中で、違う国からやってきた異邦人が部屋を探すのは至難の業だ。
 

そんな時、家探しを心配した咲ちゃんが助っ人を紹介してくれた。ニューヨークに長年住む美代子さんだ。美代子さんの近所に家具付きの空き部屋があるという。「no feeよ」と美代子さんは大きな笑顔で待ち合わせ場所に現れた。「no fee」とは不動産屋さんの手数料がかからない契約のようだ。物件はアッパーイーストサイドで家具付きの1LDKの古いアパート。お家賃も相場よりも安い。
 

ドアマンのいるような豪華なロビーはないが、入り口がオートロックで簡素なところが気に入った。地下にランドリーがついていて、エレベーターなしで五階建てのタウンハウスである。
 

美代子さんは初めて会った人とは思えないほどの大きな笑顔で明るい。近所を案内してくれながら「アッパーイースト愛」を語りだす。
アッパーイーストとは、マンハッタンのセントラルパークを挟んで東側に位置している。
「西側をアッパーウエストといってヤッピー族がいっぱい住んでいるのよ。だから街の流れが速くてね、その点アッパーイーストは、緩やかな空気が流れているの。」
大雑把そうな美代子さんのざっくりとした分析である。
 

ヤッピー族とは、都会の若いエリートサラリーマンたちのことである。東側は年齢層が高いぶん、地下鉄よりもバスを利用する人が多い。通勤時間の混み具合が違うという分析らしい。
申し込みを入れて契約まですごい勢いで済ませ、やっと引っ越しできたのはその年の年末だった。
 

小さい腕時計で、部屋の中で一人、カウントダウンをした。淋しさよりワクワクが止まらない。
 

翌朝、目が覚めた新年は、雲一つない青空が広がる清々しい朝だった。
 

日本のマンションよりも遥かに天井が高く、キッチンも大きな冷蔵庫とオーブンのついたガス台がある。年数の経った古いアパートで床は多少の傾きがあるが、無垢材の硬いフローリングでとても趣がある。
簡素な壊れかけた家具だけれど、ないよりマシで家具を買わずに済む。少ない荷物をほどき自分の空間ができたら不思議と力が湧いてきた。
 

住みだしてみて、美代子さんがいう「緩やかな空気」の意味がなんとなくわかった気がした。
 

新居の部屋は、アッパーイースト側の77丁目の駅から、東へと歩いて5分ほどのところだった。駅から数ブロック進むと低層階のタウンハウスが続く。すぐ近くをイーストリバーが流れている。大都会のニューヨークを背中で感じながら、川にむかって歩いていくとだんだんと空が広がっていく。
 

そして、自分の家が近づいてくると、うっすらと川の匂いがしてくる。幼少期に過ごした柴又の町と同じ香りだ。
 

この「緩やかな空気」に包まれながら家路につく時、何とも言えない安心感に包まれる。美代子さんの大きな笑顔と川の匂い。近くにそんな空気があるだけで、安心する。ラグジュアリーな高級アパートのドアマンたちのように最強に思えてくるから不思議だ。大都会の片隅の穏やかな空気の中で私のニューヨーク生活が始まっていった。
 

写真Written by 中島唱子(なかじま しょうこ)
 1983年、TBS系テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』でデビュー。以後、独特なキャラクターでテレビ・映画・舞台で活躍する。1995年、ダイエットを通して自らの体と心を綴ったフォト&エッセイ集「脂肪」を新潮社から出版。異才・アラーキー(荒木経惟)とのセッションが話題となる。同年12月より、文化庁派遣芸術家在外研修員としてニューヨークに留学。その後も日本とニューヨークを行き来しながら、TBS『ふぞろいの林檎たち・4』、テレビ東京『魚心あれば嫁心』、TBS『渡る世間は鬼ばかり』などに出演。

 
 

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中島唱子の自由を求める女神 第3話「咲ちゃんの五箇条」

中島唱子の自由を求める女神

中島唱子の自由を求める女神
Written by Shoko Nakajima 

第3話咲ちゃんの五箇条
言語の壁、人種の壁、文化の壁。自由を求めてアメリカへ。そこで出会った事は、楽しいことばかりではない。「挫折とほんのちょっとの希望」のミルフィーユ生活。抑制や制限がないから自由になれるのではない。どんな環境でも負けない自分になれた時、真の自由人になれる気がする。だから、私はいつも「自由」を求めている。「日本とアメリカ」「日本語と英語」にサンドウィッチされたような生活の中で見つけた発見と歓び、そしてほのかな幸せを綴ります。

 
ニューヨークに到着した日の夜。居候先の咲ちゃんが、紙とペンを持ってきて白い紙に一本の線を引いた。
 

「ここが五番街」その地図に東西南北を書き加えて「この、五番街を境にイーストとウエストにわかれて、ここがセントラルパーク」とメモ用紙に手書きの地図を描いた。次に長細いフランスパンのような形を描きながら、「ここがマンハッタン」そして、ブルックリン、クィーンズ、ブロンクス,スタテン島、長細いフランスパンの周りに適当な小さいあんドーナツのような円を加えた。「とにかく、絶対、ガイドブックを街の中で開いちゃ駄目よ。日本人の観光客のようにウロウロするのは危険だからね」彼女のレクチャーが続く。
 

咲ちゃんのニューヨーク攻略のための五箇条はこれだ。
1.夜の9時以降は地下鉄に乗らない。
2.ハーレムには行かない。
3.強盗にあった時のためにお財布は二つ持つ
4.決して街の中で笑顔にならない。
5.街中で地図をひろげない。お金を数えない。
この五箇条を聞いたらますます、ニューヨークが怖くなってその日の夜は不安で寝付けなかった。
 

日本でニューヨーク行きが決まった時、「観光ですら一度も行ったことないのに、一年も住むなんて無謀過ぎる。」と周囲はとても心配した。
 

確かに、写真や映画で観るニューヨークの街は、スリリングでギラギラしている。落書きだらけの地下鉄の車内の写真だけでもかなり、パンチがある。
 

日本では毎晩のようにガイドブックを熟読してニューヨークを攻略した気持ちになっていた。しかし、実際到着して、こちらにちょっと前から住む咲ちゃんの五箇条がおとぎの国のニューヨークを壊していく。
 

しかも、ガイドブックを街で開くことができないなんて、懐中電灯を持たずに夜の山道を歩くようで妙に心細い、いや、歩けない。
 

翌朝、カバンの中にはガイドブックを忍ばせてゆっくりと街を歩き出した。必要な時は、どこかのトイレに忍び込みガイドブックを開いて確認し、決して公共の場では開かない。街の地図もガイドブックから切り離してコートのポケットに入れた。どうしても道に迷った時だけ目立たない場所でこっそり確認する。周りに細心の注意を払いながら行動した。
 

到着から、二週間もしないうちに、五箇条を教えてくれた唯一の知り合いだった咲ちゃんは、家族と年明けまで旅行をすることになりニューヨークから離れた。
 

まずは住まい探しに奔走した。毎朝、日系の不動産屋さんも訪ね条件に合った部屋を見つけアポをとってもらい一人で内見に行く。住所と地図を手掛かりに内見するアパートを訪ねながら地下鉄やバスの乗り方もおぼえた。
 

東京の街よりはるかに小さな島のマンハッタン島に世界中の人たちが集まり暮らす。アパートの空室は1%だという。そして、家賃も東京以上に高い。マンハッタンのいいロケーションならルームメイトとして入居しない限り予算内のアパートが見つからない。何軒か、ルームシェアーを募集しているアパートも訪ね内見と面接をしてもらった。
 

アメリカに来るまでは一人暮らしの生活だった。ルームシェアで暮らせる自信はなかった。ましてや、契約する相手の全く知らない外国人である。何かトラブルがあった時に言葉の壁もある。
 

ホームスティやアメリカ人とのルームシェアは英語に慣れるためには魅力的ではあった。しかし、ルームシェアの相手と少ない会話を交わしただけなのに異常なほど緊張し会話にはならない。すっかり自信をなくしてしまった。数十件まわった頃には、街はクリスマスを迎えていた。咲ちゃんの五箇条を守り続けて、日が暮れると部屋に戻るようにしていた。寒さと街への緊張で数週間が過ぎてしまった。
 

ふと、顔を洗った時、洗面所の鏡で自分の顔をみた。知り合いもいない街の中で、私の顔から笑顔が消えた。人は笑わなくなると表情筋も衰えてとても寂しそうな顔になる。
 

街を知っていくうちに、危険な場所と安全な行動とがわかってくる。ハーレムも数十年前とは違い地価も高くなりだいぶ様子も変わった。
 

街への過剰な緊張がほぐれるまで時間はかかったが、やがて自然とお店の人にも笑顔で「サンキュー」と言えるようなっていた。
 

勢いで飛び出してしまい暮らしだした巨大な街ニューヨーク。そびえ立つ高層ビルの中を歩きながら、ふと上を見上げるとマンハッタンの空が小さく見えた。
 

写真Written by 中島唱子(なかじま しょうこ)
 1983年、TBS系テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』でデビュー。以後、独特なキャラクターでテレビ・映画・舞台で活躍する。1995年、ダイエットを通して自らの体と心を綴ったフォト&エッセイ集「脂肪」を新潮社から出版。異才・アラーキー(荒木経惟)とのセッションが話題となる。同年12月より、文化庁派遣芸術家在外研修員としてニューヨークに留学。その後も日本とニューヨークを行き来しながら、TBS『ふぞろいの林檎たち・4』、テレビ東京『魚心あれば嫁心』、TBS『渡る世間は鬼ばかり』などに出演。

 
 

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中島唱子の自由を求める女神 第2話「必然のひらめき」

中島唱子の自由を求める女神

中島唱子の自由を求める女神
Written by Shoko Nakajima 

第2話必然のひらめき
言語の壁、人種の壁、文化の壁。自由を求めてアメリカへ。そこで出会った事は、楽しいことばかりではない。「挫折とほんのちょっとの希望」のミルフィーユ生活。抑制や制限がないから自由になれるのではない。どんな環境でも負けない自分になれた時、真の自由人になれる気がする。だから、私はいつも「自由」を求めている。「日本とアメリカ」「日本語と英語」にサンドウィッチされたような生活の中で見つけた発見と歓び、そしてほのかな幸せを綴ります。

 
縁というものはとても不思議である。あの時、あの人があの場所にいなければ、いまの私はない。そう思えるほど劇的に小さな偶然が大きく人生を変えていく。
 

30年以上前のTBSの局の廊下は複雑で迷路のようだった。誰かの案内がないとすぐ迷ってしまう。当時私の劇団のマネジャーがTBSの局内を局営業に廻っていたとき、複雑な廊下に迷い込んでしまい「容貌の不自由な人募集します」という風変わりな告知に目が止った。すぐさまに制作部の部屋に飛び込み私のプロフィールと宣材写真を提出したのが書類選考の最終日。それが、デビューのきっかけとなった『ふぞろいの林檎たち』である。あの時、もし、マネジャーがその廊下であの告知に気づいていなければ、私は女優にはなっていなかった。
 
 
デビューから息切れしながら一気に駆け上った10年間。夢中で仕事をしてきたけど、心の中はいつも不安と孤独だった。仕事は順調のように見えたが心の中はプレッシャーで押しつぶされそうだった。芝居は好きだった。舞台もテレビもどんな役でも演じることに喜びも生きがいも感じてはいた。けれども、仕事を終えて自宅に戻ると妙な不安と孤独で押しつぶされそうになる。
 

その気持ちを立ち止まって考えるほどの余裕もなかった。いつしか時代に流されて本当の自分を見失いかけていたのかもしれない。
 

その頃の私は、旅行に行く時間のゆとりも、勇気もなかった。寝る前に「地球の歩き方」を開いては知らない国を旅する。ロンドンも、パリもイタリアも自由自在に空想の中を巡る旅だ。ガイドブックの中だけの憧れの場所はおとぎの国のようにキラキラしていた。
 
 
そんな時、舞台を公演中の劇場の楽屋で国費の留学の話を聞いた。芸術家のための国費留学があって、当時有名な演出家も、イギリスへ一年留学していたので一挙に話題になっていた。その話を私にしてくれたのは、舞台メイクの指導に1日だけ楽屋を回っていたメイクさんだ。 インターネットも携帯もない時代である。イエローページで調べた電話番号を頼りに問い合わせをし、公演の合間に申請書類を集めた。すべての書類が揃いポストに投函したのは書類締め切りの最終日の夕方だった。
 

半年が過ぎた頃、自宅に届いた地味な封筒を開いて読んでみたら、「内定」の二文字。その後面接を受け、私はニューヨーク行きの切符を手にした。
ガイドブックの中の「おとぎの国」の街が、現実の今いる場所に変わるのだ。
 
 
メイクさんが楽屋を訪れて留学の話をしてくれた、わずか15分。何か、素通りできないひらめきのような勘がはたらいた。あの時に国費の話を聞かなかったら、アメリカで暮らすようなこともなかったし、いまの生活はなかっただろう。
 

振り返ると人生の中であの時の決断ほど大きなものはない。ただ、自分を見失いかけていた時の未来への不安と知らない場所で暮らす不安は百八十度違う。
何か揺り動かされる思いで30歳になる直前に私は、「ニューヨーク」へ向かった。
 
 
写真Written by 中島唱子(なかじま しょうこ)
 1983年、TBS系テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』でデビュー。以後、独特なキャラクターでテレビ・映画・舞台で活躍する。1995年、ダイエットを通して自らの体と心を綴ったフォト&エッセイ集「脂肪」を新潮社から出版。異才・アラーキー(荒木経惟)とのセッションが話題となる。同年12月より、文化庁派遣芸術家在外研修員としてニューヨークに留学。その後も日本とニューヨークを行き来しながら、TBS『ふぞろいの林檎たち・4』、テレビ東京『魚心あれば嫁心』、TBS『渡る世間は鬼ばかり』などに出演。

 
 

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中島唱子の自由を求める女神 第1話 「自由を求める女神」

中島唱子の自由を求める女神

中島唱子の自由を求める女神
Written by Shoko Nakajima 

第1話 自由を求める女神
言語の壁、人種の壁、文化の壁。自由を求めてアメリカへ。そこで出会った事は、楽しいことばかりではない。「挫折とほんのちょっとの希望」のミルフィーユ生活。抑制や制限がないから自由になれるのではない。どんな環境でも負けない自分になれた時、真の自由人になれる気がする。だから、私はいつも「自由」を求めている。「日本とアメリカ」「日本語と英語」にサンドウィッチされたような生活の中で見つけた発見と歓び、そしてほのかな幸せを綴ります。

 

ニューヨークに住みだした頃、悲鳴をあげるほど怖いものがあった。
それは、地下鉄のプラットホームを駆け抜けるドブネズミと、ハドソン川にそびえ立つ「自由の女神」の存在だ。
 

JFK空港からブルックリン橋を渡り、ニューヨークの中心マンハッタンへ向かう時、巨大なニューヨークの摩天楼が見えてくる。「これぞ、ニューヨークビュー」とワクワクするそのスポットを通る度に、今でも私はぐっと歯に力をいれて目をつぶる。
 

この景色のすぐ近くに鳥肌が立つほど、観てはいけない、ゾッとするものがある。それは、ニューヨークの玄関口に悠々とそびえ立つ「自由の女神」の存在である。
 

昔、修学旅行中、はじめて大仏を見た時も、悲鳴をあげたくなるほどの恐怖を感じた。それ以来大きな銅像を見るたびに震えるようになった。
 

『自由の女神』をニューヨークで見てしまった時、同じ症状が私の身に起きてしまう。上野の西郷さんぐらいまでの銅像は平常心を保てた。しかし、巨大な銅像をみてしまうと毛穴がひらいて叫びたくなる不思議な恐怖だ。夜景でライトアップされたその姿をみたら、もはや想定できないレベルの恐ろしさである。しかも、彼女は青くて顔色も悪い。
 

1996年の冬。私がはじめてニューヨークで暮らしたこの年は、記録に残るほどの大寒波だった。街はクリスマス前でどこもイルミネーションが綺麗で、観光客や、買い物客で賑わっていた。慣れない街で暮らしだした最初の冬。ワクワクと不安と緊張といつもこの三重奏が気持ちの中に充満していてクリスマスソングなんて耳に入ってこない。ニューヨークの巨大な建物の隙間から覗く小さい空。路上のあちらこちらでみかけるホームレスたち。
 

街の中を地図片手にただ歩き回っていただけなのに、クリスマスが終わった頃には、もうすでに心の中のワクワクはすっかり消えていた。不安だけの心模様である。ニューヨークに来てしまったこと、この街を留学先に選んでしまったことを心の底から後悔した。文化庁の派遣芸術家在外研修員として「家族に不幸があったとしても、研修先から日本へは帰国しないように」という厳しい条件のもとでこの街にやってきた。下調べもせず、一回も訪れた事もないニューヨークを何故、選んでしまったのだろう?ここへ来てしまった自分の無計画さにも腹が立った。しょんぼりブルックリンブリッジを一人北風に吹かれながら歩いていると、デビルマンのようにそびえ立つ「自由の女神」が見えてくる…。あれから26年。その後、アメリカ人の主人と出会い、結婚し、今もニューヨークで暮らしている。あの時の心細さと不安の気持ちが重なり、今も「自由の女神」をまともに見ることができない。
 

 
写真Written by 中島唱子(なかじま しょうこ)
 1983年、TBS系テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』でデビュー。以後、独特なキャラクターでテレビ・映画・舞台で活躍する。1995年、ダイエットを通して自らの体と心を綴ったフォト&エッセイ集「脂肪」を新潮社から出版。異才・アラーキー(荒木経惟)とのセッションが話題となる。同年12月より、文化庁派遣芸術家在外研修員としてニューヨークに留学。その後も日本とニューヨークを行き来しながら、TBS『ふぞろいの林檎たち・4』、テレビ東京『魚心あれば嫁心』、TBS『渡る世間は鬼ばかり』などに出演。

 
 

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中島唱子の自由を求める女神 by 中島唱子

中島唱子の自由を求める女神 by 中島唱子
言語の壁、人種の壁、文化の壁。自由を求めてアメリカへ。そこで出会った事は、楽しいことばかりではない。「挫折とほんのちょっとの希望」のミルフィーユ生活。抑制や制限がないから自由になれるのではない。どんな環境でも負けない自分になれた時、真の自由人になれる気がする。だから、私はいつも「自由」を求めている。「日本とアメリカ」「日本語と英語」にサンドウィッチされたような生活の中で見つけた発見と歓び、そしてほのかな幸せを綴ります。

 
第9話 「太陽へ向かうひまわり」 
第8話 「Long Shadow 今も私の心の中で輝き続けるひと」 
第7話 「小さい山を越えた時、巨大な山も見えてくる」 
第6話 「暗黒の転校生」
第5話「空振りのメトロカード」
第4話「川の匂いと大きな笑顔」
第3話「咲ちゃんの五箇条」
第2話「必然のひらめき」
第1話「自由を求める女神」
 

 
写真Written by 中島唱子(なかじま しょうこ)
 1983年、TBS系テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』でデビュー。以後、独特なキャラクターでテレビ・映画・舞台で活躍する。1995年、ダイエットを通して自らの体と心を綴ったフォト&エッセイ集「脂肪」を新潮社から出版。異才・アラーキー(荒木経惟)とのセッションが話題となる。同年12月より、文化庁派遣芸術家在外研修員としてニューヨークに留学。その後も日本とニューヨークを行き来しながら、TBS『ふぞろいの林檎たち・4』、テレビ東京『魚心あれば嫁心』、TBS『渡る世間は鬼ばかり』などに出演。