明けの明星が輝く空に 第152回 シン・ウルトラマン③:“神”から“友”へ
『シン・ウルトラマン』の「シン」とは何か?この問いに対して、制作者からの公式な回答はない。2016年に公開された『シン・ゴジラ』の場合、一説には、庵野秀明総監督が「神」、「真」、「新」という意味を込めたとされている。『シン・ウルトラマン』においては、「神」と「新」の2つは確実だろう。なにしろ、主人公の名前が「神永新二」なのだから。
今作のウルトラマンは、地球の監視者であり裁定者という設定で、あたかも人間の上位概念として存在している。それがある日忽然と姿を現し、人智を超えた能力をもって禍威獣(怪獣)や外星人の脅威を取り除く。劇中の台詞を借りれば、「もっとも神様に近い存在」だと言えるだろう。
ウルトラマンの神性については、すでにオリジナルのテレビ版『ウルトラマン』(1966年)でも指摘されていた。メインライターの金城哲夫氏が沖縄出身だったため、ウルトラマンというキャラクターの造形には、豊穣をもたらす神がやって来るニライカナイ信仰の影響があると言われる。また、金城氏による脚本ではないが、第7話『バラージの青い石』では、砂漠の町バラージの神殿に、ウルトラマンによく似た石像が安置されている。町の人の話では、かつて人々を怪獣から救ってくれた「ノアの神」だという。(劇中、ノアの神=ウルトラマンの先祖だと示唆する台詞があるが、本当のところは明らかにされていない。)
いつもどこからか現れ、人々を救ってくれるウルトラマン。実にありがたい存在だが、裏を返せば、ウルトラマンが助けてくれるのだから人間は何も努力する必要はない、という他力本願な姿勢をもたらす危険性がある。これに関連して、ひとつ興味深い話があるので紹介しよう。ある日、金城氏が怪獣ごっこをする子どもたち見ていると、逃げもせず怪獣に捕まってしまう子がいた。そんなことではダメだと諭したところ、その子からは、ウルトラマンが助けてくれるからいいんだという答えが返ってきたそうだ。これではいけないと思った金城氏が書いたのが、第37話『小さな英雄』だ。科学特捜隊のメンバー、イデ隊員は、どうせいつもウルトラマンが助けてくれるのだからと、目の前にいる怪獣と戦う意欲を失う。その傍らで、人間に友好的な小さな怪獣ピグモンが勇敢に立ち向かい、あえなく殺されてしまった。そのとき、イデは主人公ハヤタに強く叱責され、ようやく自分の過ちに気づき、気持ちを奮い立たせる。
『シン・ウルトラマン』には「困ったときの神頼み」という台詞が登場するが、これは物語終盤に人類滅亡の危機が高まる中、ウルトラマンに期待が寄せられる状況を半ば揶揄してのものだ。これなど完全な他力本願で、努力を放棄していることと同義だ。その後、頼みの綱であるウルトラマンが敗れ去ったと知った政府は、なんと、滅亡を運命として受け入れ、無抵抗のままその時を待つことを閣議決定する。神永が所属する禍威獣特設対策室(禍特対)も為す術がなく、メンバーの滝明久も絶望感に打ちのめされ、無気力に陥ってしまった。
それとは対照的に、神に頼ることなく自ら行動を起こしたのが、『シン・ウルトラマン』同様、庵野秀明氏が手がけた『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(2021年)の登場人物たちだ。「知恵と意思を持つ人類」が「神の手助けなしに、ここまで来てる」という台詞に象徴されるように、彼らは自ら考え、動き、運命を切り開いた。
もちろん、『シン・ウルトラマン』もそのまま人類滅亡という結末には向かわない。状況の打開に大きな貢献をしたのが、無気力に陥っていた滝だ。科学者でもある彼は、神永から人類の運命を託される。ウルトラマンへの変身を可能にする「ベーターシステム」の基本原理を提供され、それを世界の科学者と共有。人類の叡智を結集して答えを導き出す。そして、それを伝えられた神永がウルトラマンに変身し、最後の勝負に打って出た。
結局ウルトラマンの力は必要だったのだが、ウルトラマンも人類の助けなしには何もできなかった。そこには、神とそれに助けられる人類という構図はない。両者は、互いに助け合う対等な関係だ。しかしこれ以前に、今作でのウルトラマンは、すでに神というイメージを脱ぎ捨てていた。物語中盤、神永の正体がウルトラマンであるということが発覚する。それ以降、神永はウルトラマンとして、禍特対メンバーと行動をともにするのだが、決して自分は“人類の上位概念”であるといった態度はとらない。対する禍特対メンバーも、目の前にいるのがウルトラマンだとわかっても、それが神永という人間の姿だからか、特に畏怖するようなところはなかった。そうして、両者は対等な立場で協力し、仲間、さらには友とも言うべき関係を築いていく。実は、神永はまだ正体が明らかになる前の物語序盤で、禍特対の一人と「バディ」を組んで仕事をすることになるのだが、それがやがて築かれるウルトラマンと人類との関係の伏線になっていたわけだ。
1960年代に登場したオリジナルのウルトラマンは、正体を隠したまま地球人の姿で人々と行動をともにした。当然、人々はウルトラマンの人間体を、自分たちと同じ地球人だと信じて接し、そのようにして語りかけた。だから、彼らにとってのウルトラマンとは、神のごとく仰ぎ見る銀色の巨人、それ以外の何物でもなかったのだ。そういった意味で、『シン・ウルトラマン』におけるウルトラマン像は、新しい。結果的に「神」の要素が消え去り、単なる「新」作という意味を超えた「新」が提示されたのである。
※参照:『シン・ウルトラマン』の予告映像
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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】おそろしいことに(?)最近読んだ本に感化され、マルクスの『資本論』でも読んでみようかという気持ちになり、とりあえず『100分de名著』のテキストでお茶を濁すことに。引用されている訳本の文章を読む限り、ハードルはかなり高そうだ・・・。
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明けの明星が輝く空に
改めて知る特撮もの・ヒーローものの奥深さ。子供番組に隠された、作り手の思いを探る
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