明けの明星が輝く空に 第169回:『ゴジラ』×『ゴジラ-1.0』
アカデミー賞の視覚効果賞にノミネートされた『ゴジラ-1.0』は、ゴジラ以外の怪獣が登場しないという点で、原点に立ち返った形だ。そこで今回は、東宝ゴジラシリーズ第1作の『ゴジラ』と比較し、それぞれの作品の特徴を浮き彫りにしてみたい。
『ゴジラ』は、終戦から10年もたっていない1954年に公開された。それだけに戦禍の影を色濃く残す作品だが、物語は後半、若い男女3人の関係を軸に進む。主人公の尾形秀人とその恋人である山根恵美子、そして、かつて恵美子の婚約者的な立場にあった芹沢博士だ。この、“蛇足”にも見えてしまうメロドラマ的要素は、若手俳優を売り出すためでもあったのだろう。尾形を演じたのは、のちにスターダムに駆け上がった宝田明さんだった。しかしそれと同時に、芹沢博士の人物像を明確にするために必要だったとも考えられる。
尾形は太陽の下が似合う好青年だが、芹沢博士は対照的に陰のある孤独なキャラクターだ。彼の研究室が地下にあるという設定も、その印象を強めるためだろう。そこに恋物語からはじき出された姿が描かれ、さらに孤独な印象が強まる。『ゴジラ』を撮った本多猪四郎監督の作品とは、“はぐれ者”の物語だという指摘があるが、芹沢博士は、まさにその“はぐれ者”である。そして、ゴジラも(文明社会に)居場所はないという意味で、芹沢博士とキャラクター造形が重なる。芹沢博士の悲哀とは、ゴジラの悲哀でもあった。ここに、ゴジラの本質がある。
一方、昨年11月に公開された『ゴジラ-1.0』(以下、『-1.0』)は、『ゴジラ』以上に人間ドラマが濃密だ。主人公は元特攻隊員の敷島浩一。彼は、“はぐれ者”というわけではないが、強い自責の念を抱えて生きている。実は戦時中、搭乗機の故障を装い、特攻から逃げてしまった。さらに、逃げた先の守備隊基地で、仲間を見殺しにもしている。というのも、ゴジラの襲撃を受けた際、駐機中の戦闘機から機銃掃射をするチャンスがありながら、恐怖で何もできなかったのだ。終戦後は東京で平和に暮らしていたが、特攻とゴジラから逃げたという思いが拭えない。連日、ゴジラ襲撃の記憶が悪夢となって蘇り、自分が生きていることすら信じられなくなる。それでも、一緒に暮らす典子の支えもあり、生きていくことに希望を見出す。
『-1.0』のキャッチコピーは、「生きて、抗え」である。この映画は、たとえどんなに辛くても生きろ、と訴えている。だから、ゴジラの東京襲撃で典子を失ったと思い込んだ敷島が、“死ぬこと=特攻”を決意して戦闘機に乗り込んだ物語終盤、実は脱出して無事だったという、ご都合主義的に見えてしまう展開になるのも当然のことだった。出撃直前、自分の手の震えに気づき、隣にいた男に向かい、「笑えますよね」と恥じたように言う場面があるが、たとえ格好悪かったとしても、生きたいと願う人間の思いを、山崎貴監督は尊重しているのだ。
敷島が脱出した戦闘機はゴジラの口に突っ込み、爆発で頭部を吹き飛ばされたゴジラは死んだ。しかし、敷島が典子と再会を果たした次のカットで、ゴジラの肉体が再生を始めていることが示される。それが暗示するのは、ゴジラの復活であって、新たなゴジラの誕生ではない。前者はゴジラの脅威が増幅するだけだが、後者は人間の愚行(核実験)が繰り返されることを意味している。そして、1954年の『ゴジラ』で示された懸念が、まさに後者だった。ゴジラが沈んだ海を見ながら、山根博士(恵美子の父)は、「あれが、最後の1匹だとは思えない」とつぶやく。彼が恐れるのは、再び水爆実験が行われ、次のゴジラが出現することだ。(ゴジラは、水爆実験によって凶暴化した古生物だった。)博士の言葉は、人間が愚行を繰り返すことに対する警鐘だ。約70年前の映画が、今も輝き続けている理由が、ここにある。
水爆実験で被爆し、口から放射能を帯びた熱線を吐くゴジラは、核兵器のメタファーだと言われる。しかし、長いシリーズの中で、これまで一度も、ゴジラ自身が核兵器並みの破壊力を持つ姿は描かれなかった。『ゴジラ』で東京は火の海になったが、その光景が想起させるのは東京大空襲だ。ヒロシマやナガサキではない。しかし、『-1.0』でゴジラが吐いた熱線は(明確な形のキノコ雲こそ描かれなかったが)、原爆級の大爆発を引き起こし、銀座を含む広範囲を廃墟に変えた。とうとうゴジラは、核兵器そのものになってしまったのだ。
ゴジラの恐ろしさを再定義した演出とも言えるのだが、個人的には釈然としない。水爆実験で怪物化したゴジラは、本来は犠牲者。ゴジラの着ぐるみの皮膚が、ひび割れたように荒れた造形なのは、焼けただれたイメージをまとわせるためのものだ。そのゴジラ自身が、己を傷つけた忌むべき核兵器そのものになる・・・。あまりにも残酷な話だ。もしそうするのなら、その呪われた悲劇性を映画の中心に据え、ゴジラの死には“鎮魂”の意味を込めるべきではないだろうか。
鎮魂。それはまさに、『ゴジラ』の主題のひとつでもあった。ゴジラが倒された場面では、レクイエムとしか言いようのない、美しく悲しげな曲が流れる。芹沢博士もゴジラと“心中”する形で命を落とすため、彼の死を悼む意味合いは当然あるだろう。しかし、前述の通り、両者は“はぐれ者”というキーワードでつながっている。哀悼は、ゴジラにも捧げられたと見るべきだ。ゴジラ映画が話題になっている今だからこそ、そんなことも多くの人に知っておいてほしいと願う。
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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】暖房に頼らず厚着で過ごしていると、体が寒さに慣れてきました。夏もしばらくすると、それほど暑いと思わなくなります。でも、年を取ると暑さ・寒さを感じなくなると言うから、そのせい?
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明けの明星が輝く空に
改めて知る特撮もの・ヒーローものの奥深さ。子供番組に隠された、作り手の思いを探る
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