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明けの明星が輝く空に 第175回:納涼!『妖怪百物語』

明けの明星が輝く空に 第175回:納涼!『妖怪百物語』

年々、暑くなる日本の夏。昭和世代としては、やはり“お化け映画”で涼みたい。お勧めは、妖怪たちが活躍する『妖怪百物語』(1968年)。この映画は、『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』との併映だっただけに、内容はファミリー向け。登場する妖怪たちは愛嬌のある連中ばかりなので、気楽に観て楽しむことができる。

物語は、豪商、但馬屋利右衛門と、寺社奉行、堀田豊前守の悪行を、浪人に姿を変えた大目付配下の大木安太郎が暴くという、典型的な勧善懲悪時代劇だ。はっきり言って、妖怪が登場しなくても成立する話なのだが、脚本は無理なく妖怪を絡める構成となっている。

そもそも「百物語」とは、人々が集まり怪談を語り合うというもので、江戸時代には多くの人々が楽しんだものらしい。100話すべて語り終えると、怪異なことが起こるとされている。『妖怪百物語』では、それを防ぐために“憑き物落とし”を必ずしなければならない設定なのだが、豊前守のための余興として百物語の会を催した但馬屋が、そんなものは迷信だと言って無視したため、妖怪たちを呼び寄せることになってしまう。

この場面は、拝金主義者としての但馬屋のキャラクターを提示する上で重要だ。彼は「私なりの憑き物落とし」と言って、豊前守を含む客人たちに、小判の包みを持たせる。妖怪以前に、金に憑りつかれた人間というわけだ。

時代劇でも現代劇でも、拝金主義者は悪人の基本類型の1つだが、この作品ではそういった物質主義的な思考と、妖怪という超自然的なものを畏れる心、その2つが対立する構図になっている。但馬屋は、小さな社や祠のある土地を指して「空地同然」という言い方をするが、彼の合理性だけを重視した考え方がよく表れている。

さて、納涼を謳うからには、肝心の妖怪たちのことを書かなくてはならない。先ほど触れたように、妖怪たち(の着ぐるみ)は愛嬌があるのだが、それもそのはず、実は漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の作者、水木しげる氏による妖怪画がデザインの元になっているそうだ。子どもが演じている妖怪も複数いて、体格面でも威圧感はない。中でも、“油すまし”は不気味ながら愛嬌がある。三頭身の体に、大福のように横に広がった頭。体は蓑傘をまとっている分、ボリュームがあるが、見えている脚は(子どもが演じているだけに)細っこく、なんとも奇妙な感じがする。顔には、開いているようにも、閉じているようにも見える目。そして、思案しているのか、憮然としているのか判然としない表情。つかみどころがない。でも、どこかかわいい。

もともと、日本の妖怪は怖いのかどうかわからないものが多い。“のっぺらぼう”にしろ、“ろくろ首”にしろ、人を驚かせはするが、具体的にどんな危害を与えるのか、と聞かれても答えられない人が多いだろう。“からかさ小僧”や“提灯お化け”に至っては、もはや“ゆるキャラ”だ。それでも、おどろおどろしい音楽と、陰影の濃い照明、「出るぞ、出るぞ」と思わせる展開など、お化け映画の“快感原則”を踏まえた演出にはゾクゾクさせられるが、そういった意味では『妖怪百物語』も王道を行っている。

また、ろくろ首登場シーンでは障子がうまく使われていた。まず、障子の反対側に座っている女のシルエット。その首が徐々に伸び始める。そして影の先端が障子の端に近づいて行ったかと思うと、顔がヌッと出てそれと目が合う。首はさらに伸びてきて体に巻き付き…。そんなの怖くもない?いやいや、ぜひ想像してみてほしい。実際に人間の首が長く伸び、そのまま自分の体に巻き付くところを。実感が湧かなければ、1982年のSFホラー映画、『遊星からの物体X』風の映像を想像してみよう。いかが?思わず叫びたくなったのでは?

この場面では、自分の女房と思っていた女の首が伸びる、という設定も心にくい。赤の他人より、身近な人間、つまりもっとも安心できる相手がバケモノだった、というシチュエーションほど恐ろしいものはないからだ。(実はその裏に、「自分の女房ほど怖いものはない」という意味が込められている、なんていうふうに解釈したら、深読みし過ぎだろうか。)

『妖怪百物語』の妖怪たちは、物理的な攻撃はせず、とことん相手を怖がらせる。ただ、その過程で人間を幻惑するらしく、刀で切りつけた相手は妖怪ではなく仲間だった、というオチがつく。そうやって但馬屋も豊前守も破滅へ追い込んだ妖怪たちは、楽しげに、ゆっくり踊りながら去っていく。闇の中、宙に浮いているようにも見える体は半分透明で、実体があるのかどうかもわからない。果たして、これは夢なのだろうか。やがて彼らは、闇に飲まれ、消えていった。

映画はこの後、場面が変わって、但馬屋らの遺体が発見される。そして、「この世には、人智で測れぬ不思議なこともある」という大木のセリフで幕を閉じる。しかし納涼という観点からは、妖怪たちが去っていくカットで「完」の文字が出た方が断然いい。みなさん、もし夏にこの映画を観るなら、最後の妖怪が消えたところで、停止ボタンを押しましょう。

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。

【最近の私】映画『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』を観ていたら、最後のテロップに驚きました。翻訳者の名前が、以前の仕事仲間だったからです。活躍は知っていましたが、結構メジャーな作品も手掛けるようになったんですねえ。素晴らしい。

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明けの明星が輝く空に
改めて知る特撮もの・ヒーローものの奥深さ。子供番組に隠された、作り手の思いを探る 

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