やさしいHawai’I 第57回 『日本人が大好きなハワイ』
【最近の私】母が窓ガラスをふいていて、縁側から地面に転落。胸椎を圧迫骨折し入院した。高齢だと圧迫骨折よりも、入院をきっかけにほかに心配なことがでてくる。ということで脳細胞に刺激を与えるべく病院通いの毎日です。
ハワイを訪れる日本人は現在、年間およそ150万人前後だという。円高だったころはそれをはるかに超えていた。日本人は本当にハワイが好きだ。1960年代の前半以降のバブル期、日系企業がハワイのホテルを次から次へと手に入れた時代があった。モアナ サーフライダー、シェラトン・ワイキキ、ロイヤル・ハワイアンなどワイキキにあるホテルの90%が日系企業の所有となった時もあった。また最近ではザ・カハラ・ホテル&リゾートも日本企業が買収。ハワイ島のハプナビーチ・ホテル、そして私にとっては聖地とも言える、あのマウナケアビーチホテルも、今は日本のプリンスホテル系列となっている。
ザ・カハラ・ホテルは、最高級の住宅街であるカハラ地区の中にある。ハワイでトップクラスのこのホテルには、世界中の王族、国家元首など数えきれないほどのVIPが滞在してきた。(私には最初にオープンした当初の「カハラ・ヒルトン」の名の方がなじみやすい)。私がオアフ島で住んでいたのはハワイカイという地域だが、ホノルルへ出かける時には、このカハラ地区を通過する。ゲートから家まで長いアプローチがあり、ブーゲンビリアやプルメリアの花が咲き乱れる豪華な家が建ち並んでいた。そんなホテルがまさか日本人の手に渡るなど、当時は想像もしていなかった。
ハワイでは1960年代、それまで盛んだったサトウキビ産業が衰退し始めた。そこ当時の知事がリゾート地としての開発を計画するため、大富豪ロックフェラー氏をハワイ島に招待し、リゾート開発を依頼した。マウナケアビーチホテルは『控えめな上品さ』というロックフェラー氏のコンセプトを基に、当時のホテル建設における最高の専門家を招集し、破格の建設費をかけて計画された。その結果美しく格調ある、世界でも屈指のホテルとなった。
私たちがマウナケアビーチホテルを訪れたのは1973~75年だから、完成してからおよそ10年後のころだ。“訪れた”と言っても、簡単に泊まれるようなホテルではなかった。1ドルが300円前後だった当時、食事を含んだ宿泊代は1泊100ドル。ディナーにはドレスコードがあり、GパンにゴムぞうりはNGで、上着着用が義務付けられていた。私たちにとっては高嶺の花で、ヒロからコナへドライブするときに、1人10ドルのランチビュッフェに立ち寄るのが精いっぱいだった。(現在のサンデーブランチビュッフェは60ドルだそうだ)。年に数回このマウナケアビーチホテルでビュッフェを食べることは、私たちにとって最高の贅沢だった。
ホテルのエントランスには、海からの爽やかな風が通り抜ける。各階の壁には、見事なハワイアンキルトのベッドスプレッドが飾ってあり、ホテル中のあちこちに、まるで博物館か美術館を思わせるような素晴らしい東洋のアンティークが、さりげなく置かれている。どれを取っても、ロックフェラー氏の主張した『控えめな上品さ』にあふれていた。
そんなマウナケアビーチホテルも、今は日系企業の傘下となっている。
リゾート開発と称して、気候のいいハワイの多くの土地を買収し、そこに豪華なホテルを建て、プールやテニスコートはもちろんのこと、ゴルフ場も備えているとなれば、日本人に人気が出ないはずがない。何よりも日本語での行き届いたサービスは、ハワイを外国と思わせない居心地の良さを感じさせるのだろう。今後もハワイには多くの日本人が訪れるに違いない。
ところが、日本人が大好きなこのハワイに、日本人に対して厳しいまなざしを向けている人々がいることを、ご存じだろうか。次回はハワイを愛する人なら知っておくべき、ハワイの先住民の土地に対する愛着や苦悩などを紹介したい。
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。