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やさしいHawai‘i   第64回 「ハワイの誇り ダニエル・イノウエ氏」

やさしいHawai‘i   第64回 「ハワイの誇り ダニエル・イノウエ氏」

【最近の私】ハワイ州のイゲ州知事は、アメリカ国内で初めてパリ協定の履行を図る州法に署名しました。トランプ大統領の離脱発表に対し、ニューヨーク州やカリフォルニア州は「米気候連盟」を結成。ハワイも参加しており、これからの気候変動に積極的に取り組む姿勢を見せました。私としては、ハワイの人々を誇りに思い、心から応援したいと思います。頑張ってほしい。
 

皆さんは今年、ハワイの『ホノルル国際空港』という名前が変わったのをご存じだろうか。新しい名前は『ダニエル・K・イノウエ国際空港』。 2017年5月30日に改名式典が同空港で行われた。
 

ダニエル井上1
 

また、ハワイ島のヒロとコナを結ぶ、サドルロードと呼ばれていた道路は、かつてレンタカーでは運転が禁止されるくらい危険な悪路であった。だがダニエル・イノウエ氏の献身的な努力によって見事に舗装され、ついに2013年開通した。彼の偉業をたたえるためにこの道路は『ダニエル・K・イノウエ・ハイウェイ』と名付けられた。
 

私も3年前この道路を運転したが、周囲の美しい景色、完ぺきに整備された道路、どれをとっても文句ない、実に快適なハイウェイだった。
 

ダニエル井上ハイウェイ
 

では、この『ダニエル・K・イノウエ』とは、どんな人物なのか。
かつてヒロで親しくお付き合いさせていただいていた、日系二世のリチャード・ヨコヤマさんの口から、頻繁に出てきた名前だ。いつも誇らしげに「ダニエル・イノウエはのう、左手で握手をするんじゃ。右手は祖国アメリカに捧げたんじゃ」と語っていた。
 

ダニエル・イノウエ氏は、1924年アメリカ合衆国ハワイ準州(当時)ホノルルで生まれた日系二世だ。ハワイ大学在学中第二次世界大戦が始まり、彼は志願兵として日系人のみで編成された第442連隊戦闘団に配属され、最も厳しいヨーロッパでの戦場の最前線に送られた。先日NHKBS1スペシャルで『失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊英雄たちの真実』が放映されたが、イノウエ氏もこの白人部隊テキサス大隊を救出するべく送られた部隊の一員だった。激しい戦いの中、至近距離から右腕に狙撃を受けたイノウエ氏は、腕はほとんど粉砕されたが、その右手が握っていた手榴弾を左手で必死に拾いあげ、敵のトーチカに投げつけたという。その後も左手1本で機関銃を打ち続けたが、脚にも被弾したため意識を失い、ついに陸軍野営病院に運ばれ、そこで右腕を切断された。(DVD:Daniel K.Inouye『 An American Story The Biography』の中で、本人が語っている)
 

ダニエル井上DVD
 

第442連隊戦闘団としてアメリカ本土へ訓練のため送られる前日、彼の父親は彼に「我々は良き生活を与えられ、お前も教育を受けることができた。これはこの国に負うところが大だ。それを心に刻み、どんなことがあっても家族、そして国の名誉を傷つけることをしてはならない。」(DVD:Daniel K.Inouye 『An American Story The Biography』より)と言ったという。当時、積極的に戦地へ向かった日系二世の志願兵たちが共通して持っていた価値観、それは祖国アメリカへの忠誠心を貫くことだった。残していく家族、祖国に対し、決して不名誉なことはすまい、命を懸けても立派に戦い抜く『Go for broke(全力で立ち向かう)』を信条としていたのだ。
 

右手を失ったイノウエ氏は、当初の医学への道をあきらめ、復学したハワイ大学で法律を学び、卒業後ジョージ・ワシントン大学の法科大学院に進学した。その後政界の道を進んだイノウエ氏は、日系アメリカ人として初の下院議員、上院議員となって、およそ50年間にわたり数々の功績を残した。よく知られているのは、1973年のウォーターゲート事件だ。彼は調査特別委員となり厳しく尋問を進め、ニクソン大統領を辞任に追い込んだ。当時ハワイに住んでいた私たちは、毎日テレビにかじりついて、ウォーターゲート事件の顛末に注目していた。1987年のイラン・コントラ事件では調査委員長に任命され、政府高官の不正を追及し、民主主義を貫いた。
 

またダニエル・イノウエ氏は、あの東日本大震災の直後の2011年5月、日本を訪れていた。訪日に際しイノウエ氏は、震災に対する心からのお見舞いを伝え、多くの米国人が日本を支援するために訪日しており、日本の復興に向けて今後も支援していきたいと述べたという。(外務省のHPより参照)
 

そして翌年2012年12月17日に呼吸器合併症のため、88歳でこの世を去ったダニエル・イノウエ氏は、最後の最後まで、政治家としてというよりむしろ、一人の人間として座右の銘「義務と名誉」を貫いた。葬儀の場でオバマ大統領(当時)は、ダニエル・イノウエ氏がいかにアメリカの国にとって、そしてアメリカの良心にとって大切な人物であったかを、弔辞で述べた。
 

ハワイで行われた葬儀では、有名なハワイアン歌手、Amy Hanaiali’iが出席し、ハワイがかつて王国だったときの国歌『Hawai’i Ponoi』(現在のハワイ州歌)を歌った。アメリカ人であるために命を賭して戦い右手を失ったダニエル・イノウエ氏は、しかし最後まで、自分のルーツを忘れない人物であった。彼が臨終の折に残した最後の言葉は『Aloha』だったという。
 

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。

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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。