やさしいHawaii 第74回 メアリー・カヴェナ・プクイは “ハパ・ハオレ”
【最近の私】「コロナでハワイへ行けない!!!」 ハワイ好きは今、みんなそう思っている。でも皮肉なことに観光客が激減して、ハワイの海は本来の美しさを取り戻したようだ。
今回はメアリー・カヴェナ・プクイ女史をとりあげます。
※プクイ女史
出典:『Mary kawena Pukui Cultural Preservation Society』
プクイ女史は、前回取り上げたデビッド・マロ(第73回 ハワイの未来を予言した男https://www.jvta.net/co/yasasiihawaii-73/)からちょうど100年後の1895年に生まれました。彼女がなぜハワイの文化において、バイブルと言われるほど欠くことのできない重要な人物であるのか。それは彼女の残した功績から明らかです。プクイ女史は50冊以上の訳書や著書、150曲以上のハワイ語の歌詞を作りました。また、前回のデビッド・マロを始め、ジョン・パパ・イイや、サミュエル・カマカウなど19世紀の知識人がハワイ語で書き記した歴史や文化のほとんどを、プクイ女史が英訳しました。これは彼女が英語とハワイ語をともに母語としていたからこそ可能だったことです。中でも最も大きなものは、1957年に完成したエルバートとの共著『Hawaiian Dictionary』です。ほぼ3万語のハワイ語を抱えるこの辞書はハワイ語を学ぶ人々にとって、なくてはならないものとなっています。そして私にとって大変思い入れの強い一冊が『The Polynesian Family System in Ka’u ,Hawaii』です。2002年の夏、ハワイ大学ヒロ校のサマーセッションを受講した折、Hawai’i ‘Ohana という授業で使った教科書でした。
※プクイ女史の著作の1冊『The Polynesian Family System in Ka‘u Hawaii』 筆者所有の書籍より
それまでの保守的なハワイ人は自分たちの文化や教えを他人に詳らかにすることを躊躇しましたが、プクイは「自分たちの孫のために、これを残すのです」と、白人の価値観をもとに公に記録を残しました。そこに大きな価値がありました。
あまりに著名なプクイ女史の功績を並べることは簡単です。それより私は、彼女の“ハパ・ハオレ”としての個人に大変興味を持ちました。
“ハパ・ハオレ”とは何か?
みなさんは、“ハパ”というハワイアンミュージックのグループをご存じでしょうか。ニューヨーク生まれの金髪で白人のバリー・フラナガンが、1980年ハワイにやって来てすっかりハワイの虜となり、ハワイ人のケリィ・カネアリィとデュオを組んで生まれたのがハパ。そして1992年発表したアルバム『Hapa』は大ヒットしました。バリーの見事なスラックキー・ギターに、ケリィの味のあるヴォーカル。そしてトラディショナルからポップまで様々なスタイルでアレンジされた美しいメロディ。彼らはなぜデュオの名をハパと名付けたのでしょうか。ハワイ語でhapaとは、上記のプクイ女史の辞書によると“portion, fragment, part”そして“person of mixed blood”とあります。一人はニューヨーク生まれ金髪の白人、もう一人は生粋のハワイ人というこのデュオは、白人とハワイ人が半分ずつ、という意味でハパと名付けたわけです。(ハパの音楽に関して書き始めると大きく道が外れるので、いつか改めて書きたいと思います)
プクイの父親はマサチューセッツ出身のヘンリー・ナサニエル・ウィギンという白人(ハワイ語でハオレ)で1892年にハワイへやって来ました。ハワイ島のシュガープランテーションで働いていましたが、後にオアフへ移り、刑務所の警備の仕事に就きます。母親のパアハナはハワイ人でした。家庭内では、白人の父親はハワイ語が流暢であるにも関わらず、プクイに英語で話し、母親はハワイ語のみを使いました。ですからプクイは生まれながらにバイリンガルだったのです。プクイを“ハパ・ハオレ”と言った所以は白人の父とハワイ人の母を持つということにあります。この“ハパ・ハオレ”であることが、彼女のその後の人生を決めたといえるでしょう。
ハワイではかつて、女の子が生まれると母方の祖母に預け、ハワイの慣習を学ばせる、ということがよくありました(ハワイ語でハナイ、つまり養子)。父親は白人だったにも関わらず、プクイを祖母であるポアイに預けることを受け入れます。彼女はポアイからハワイの全般にわたる多くの文化を学びました。プクイが6歳の時祖母が亡くなり、再び両親のもとに戻りますが、プクイに大きな影響を与えたこの祖母ポアイとは、どのような人物だったのでしょうか。
ポアイは1830年生まれで、ハワイ島カウ地域の女首長の血筋を持ち、遠くをたどれば火の女神ペレを守る神官でした。また薬草に詳しく助産婦でもあり、自分の子供は最後の子を除き、自身だけで出産したそうです。ハワイの宗教、歴史、儀式などに深く精通し、フラは、クイーン・エマのお抱えフラ・ダンサーでもありました。
ポアイは、守護神(ハワイ語でアウマクア)は家族にとってとても大切だとプクイに教えました。それぞれの家庭にはサメ、フクロウ、トカゲ、ネズミ、ウナギ、石、植物などの守護神がいて、家族を守っているのだと。
私がハワイにいたときこんな話を聞きました。ボルケーノへ行く道の交差点を横切ろうとした車が、対向車に気づかず衝突しそうになった瞬間、目の前にフクロウが現れ、それを避けようとハンドルをきったおかげで事故を免れた。運転していた人の守護神はフクロウだったということです。また、ハワイでは指で何かを指すことはいけないとされています。虹や雲をむやみに指さしてはいけない、それは誰かの守護神であるかもしれないのだから。また、見知らぬ人から食べ物や飲み物を求められたら、拒んではいけない。その人はもしかして火の女神ペレが姿を変えているかもしれないから。このような、昔からのハワイの教えの多くをプクイは祖母ポアイから学んだのです。私もまた日系二世の方から、このような話は何度も聞きました。現在もペレはしっかり生きているのです。
ポアイの教えで大変興味深いものがあります。
プクイが11カ月になった時、ポアイは離乳の儀式を行いました。ポアイが“ク”と“ヒナ”神に赤ん坊の母乳への欲求を取り去るように祈りを奉げた後、孫のプクイを膝にのせ、その前にお乳を表わす石を2つ置きます。ポアイは、まだ言葉が話せないプクイの代わりに、母親のパアハナに尋ねます。「お前はもう、おっぱいを欲しがらないか?」。するとわずか11カ月のプクイは前に置いてある石をつかんで放り投げて、もう母乳を欲しがらないことを表明するのです。日本では最近、若いママは『卒乳』という言葉を言います。これは母親のほうから離乳を勧めるのではなく、赤ん坊が自ら母乳を欲しがらなくなるまで待つという離乳のやり方です。何が正解なのか、こればかりは分かりませんが、時代や場所によって“離乳”一つでも全く違うことに、母親を経験した私は、大いに興味を持ちました。
プクイが6歳の時、ポアイは亡くなりました。古代ハワイでは亡くなった人の骨を赤と黒のカパ(木の皮をたたきなめして布のようにしたもの)に包み、キラウエアの火口から投げ込んでペレのもとに送るのが習わしでした。しかしポアイは敬虔なキリスト教徒で、彼女の世代としては初めてキリスト教式の埋葬をされた一人でした。
ハワイは1893年ハワイ王国の終焉を迎え、その後アメリカ合併に向け英語教育が進められました。また学校教育の場ではハワイ語を使用することが禁止されます。
プクイが15歳、ホノルルにあるカワイアハオ神学校に通っていた時のことです。ほとんど英語を話せない地方出身のある女子生徒がいて、プクイに助けを求めてきました。当時ハワイの田舎ではまだ英語を話せない人も大勢いたのです。プクイは英語もハワイ語も達者でしたから、もちろんハワイ語で応対してあげました。ところが禁止されているハワイ語を学校で話したという理由で、プクイはひどく叱られ、1週間全生徒の前で一人テーブルに座らされ、水とパンしか与えられず、家族のもとに帰宅することも許されませんでした。自分たちの言葉で話すことが、そんなにいけないことなのか。クプイは大変傷つき、母親のパアハナも激怒してこの事件以降娘を途中退学させます。
これと同じようなことが日系移民の中でも起きました。移民としてハワイへ移住した日系一世は、もちろん英語が話せません。ハワイで生まれた日系二世は、学校に通いながら英語を学びましたが、家に帰れば親は英語が分からず、日本語で話さなくてはなりません。また、フィリピン、ポルトガル、韓国、中国など、母国語が全く違う国々からやって来た移民は、互いのコミュニケーションのために必要に迫られて、ピジンイングリッシュと呼ばれる共通語が、自然発生的に話されるようになりました。(『ハワイ研究への招待 フィールドワークから見える新しいハワイ像』(関西学院大学出版会)によると、『ピジン”とは、”共通の言語を持たない人々の間でコミュニケーションの手段として用いられる、簡略化された補助言語』と定義されています)。
ハワイで生活をしていた当時、親しくしていた日系二世のヨコヤマさんから最初にこの言葉を聞いた時、私は”ピジン(pidgin)”を”ピジョン(pigeon鳩)”の意味で言っているのだろうと誤解しました。“ハワイの日系人の少しブロークンな英語を、鳩の鳴き声のような英語という表現をしている”と思ったのです。子供たちも当然、ピジンイングリッシュを使って遊びます。ですから日系二世は学校では英語、家に帰れば日本語、そして友達同士では学校でもつい禁止されているピジンイングリッシュを使ったのです。しかしこれは正しい英語ではないと、プクイと同じように、学校で教師からひどくしかられました。
“自分たちの言葉を使うことを禁じられる”。日本人はそういう経験をしたことこがありません。ハワイの人々は言葉だけではなく、すべての文化を否定された時期がありましたが、プクイのような、ハワイ語を残そうという強い思いは、その後1960年代末の「ハワイアン・ルネサンス」へと繋がっていきます。
1913年、プクイが18歳の時ナポレオン・カロリイ・プクイと結婚します。二人には長い間子供ができず、1920年にインフルエンザの流行で孤児となった日本人の女の子を養女に迎え、ペイシェンス(Patience)と名付け、翌年、日本人とハワイ人の混血の孤児を再び養女にし、フェイス(Faith)と名付けました。その後1931年にようやくプクイに子供ができペレ(Pele)と名付けました。ペレはプクイの教えで素晴らしいフラダンサーになりますが、1979年エディス・カナカオレ(フラの第一人者)の受賞式で、アリヨシ州知事の前でチャント(詠唱)を唱えている時、心臓の発作で亡くなってしまいます。
夫のカロリイについては詳しい情報はほとんどなく、どれを見ても1943年、突然亡くなったとしか出ていません。辛うじてたった一つ、孫のラアケア・スガヌマが会長をしている、Mary Kawena Pukui Cultural Preservation Societyの中に、「カロリイがオピヒを採りに出かけて、海に落ちた」とう記載があります。オピヒというのはカサガイの仲間でハワイ固有の貝。表面を磨くと美しい光沢が出て、ペンダントトップなどのアクセサリーになります。波の荒い危険な岩場にくっついており、採るのは命がけです。
かつてハワイにいたとき、日系のヨコヤマさんの甥、ジョージが、初孫のお祝いパーティを開いたことがありました。体育館のような広い会場いっぱいにテーブルとイスが設置され、舞台ではカウからやって来たハワイアンバンドが歌い豪華なご馳走が並ぶ、とても華やかなパーティでした。そのご馳走の中でもひときわ目を引いたのがオピヒです。ジョージは私に「自分がとってきたオピヒがあるから、ぜひ食べなさい」と勧めてくれた言葉を思い出します。孫のためにオピヒを命がけで採ってきた、ということは、それだけ孫を深く愛しているということの現れなのです。プクイの夫カロリイは、常々自分は海で死にたいと言っていたそうです。気難しい人だったようですが、家族のために命を懸けて危険なオピヒ採りに行ったのでしょうか。その死は謎のままです。
プクイは1986年、91歳で亡くなりました。晩年はハワイのお年寄りからの様々な思い出話やインタビューをテープに記録したり(ビショップ博物館に保存されています)ハワイ語をYWCAで教えたり、カメハメハ・スクールでフラを踊ったりと、最後までハワイの文化と言語を残すことに努力しました。彼女がモットーとしていたのは、
『Knowledge to me is life』 (私にとって知識は人生…生きること) 扇原訳
でした。
私がハワイにいた1973~75年当時、プクイはまだ80歳前後。その時にもし今のように彼女のことを知っていたら、と思うと、本当に残念です。なんとしても一目会っておきたかった!
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
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