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やさしいHAWAI‘I  第75回「シンクレティズム」

やさしいHAWAI‘I  第75回「シンクレティズム」

【最近の私】フェデラーが引退!!! ああ、ついにこの日が来てしまった。分かってはいたが、現実になってほしくなかった。
出てくる言葉はこれだけ。「ありがとう、ありがとう、感動をありがとう!」

『シンクレティズム』とは?
今回ハワイの宗教に関して調べているうちに、初めてぶつかった単語です。

『異なる文化の相互接触により多様な要素が混淆・重層化した現象をさす。宗教について用いることが多い』(百科事典マイペディアより)

これはまさに今回私がハワイに関して書こうと思った内容でした。

前回、メアリー・カヴェナ・プクイの祖母ポアイはキリスト教徒で、亡くなった時は当時としては初めてキリスト教式の葬儀を行った一人だったと述べました。(第74回 メアリー・カヴェナ・プクイは “ハパ・ハオレ”)ポアイはモルモン教徒でした。

少し歴史を遡ってみます。カメハメハ大王はハワイ諸島を統一したのち、1819年没。その後を引き継いだのは、カメハメハの最もお気に入りの妃と言われたカアフマヌでした。(彼女のことはいずれ詳しく述べるつもりです)。カアフマヌはそれまでのハワイの社会の基盤だったカプシステム(禁止事項のこと。例えば『男女が一緒に食事をしてはいけない』をはじめとし、生活の細々としたことまで厳しく制限する掟があった)を崩壊させ、ハワイ古来の宗教や神々を否定するという、大きな変革を行ったのです。そのためハワイ人はすがるものを失い、精神的空白ができました。そして1820年、実にタイミングよく、プロテスタントの宣教師がハワイへやって来て、その空白をキリスト教で埋めたのです。

神殿1
※ハワイ島マウナケアにある、神への捧げもの

神殿3
※ヘイアウ(神殿)

1827年にはカトリックもやって来ますが、すでにカアフマヌがプロテスタントを強く支持していたために、当時はなかなか広まることができませんでした。そしてモルモン教は1850年に布教が始まりますが、意外にもハワイで信徒の数を増やしていきます(オアフ島北東部にあるポリネシア文化センターはモルモン教・・・正式には末日聖徒イエス・キリスト教会・・・が経営する施設です)ポアイは1830年生まれですから、彼女が20歳のころモルモン教に出会ったわけですが、不思議なのは、ポアイの祖先は高位のカフナ(神官、医者、職人、呪術者など様々な分野における専門家のこと)であり、さらに昔をたどれば、火の女神ペレを守る神官でした。彼女自身もハワイ古来の生活様式や文化を大切にし、薬草の知識が豊富で、フラの秀でた踊り手でもありました。そんなポアイが、なぜ異国の宗教であるモルモン教を受け入れることができたのでしょうか。どうしてもその疑問が頭から離れません。モルモン教とほかのキリスト教との違いは何だったのか?

当時、たとえキリスト教がやって来ても、ハワイ人の心の中には、崩壊したはずの伝統的なハワイの宗教が根強く残っており、特にカフナの存在は大きいものでした。ハワイ人が病気や死に際してカフナと接触し、古来の神々のマナ(霊的な力)に頼るということはこれまで代々伝承されてきたことで、彼らにとっては自然のことだったのだと思います。同じようにプクイ女史の祖母ポアイが、モルモン教徒になりながら、伝統的な文化をしっかり守っていたのは、当然のことだったのでしょう。

ペインテッドチャーチ1 ペインテッドチャーチ2
※ハワイ島カイムにあるペインテッドチャーチ

中でも、ペレ信仰は根強く残りました。ハワイ諸島は火山活動によってできた島々で、いまだにハワイ島では活発な火山の噴火、溶岩流が見られます。人間の力のとうてい及ばない自然の脅威は、そこに神がいると信じざるを得ないのです。そしてハワイ人は火の女神ペレに奉げるためにフラを踊りました。ただ、プロテスタントとカトリックは、フラは腰を振る卑しい踊りとし、踊ることを禁じていました。ではモルモン教は?
いろいろと調べてくると、ポアイがモルモン教を選択した理由が分かってきました。

ハワイとキリスト教を研究している天理大学国際学部教授、井上昭洋さんによると、『モルモン教宣教師は、フラなどの伝統芸能に比較的寛容であり、また、ポリネシア人は古代ヘブライ人の子孫であるというこの宗派独自の教義も手伝って、彼らはハワイ人の間に信徒を獲得していく』とあります。

これで合点がいきました。古来の宗教やフラ、そして先祖(ハワイ語でクプナ)を重視していたハワイ人のポアイにとって、新しく入ってきたキリスト教の中では、プロテスタントでもなく、カトリックでもなく、モルモン教が最も近づきやすかったわけです。こうして、ハワイの伝統信仰や文化とキリスト教文化が接触し、宗教面のみならず、ハワイ人の生活、文化すべてに関して、大きな変革が起きていきました。

その後、ハワイの砂糖産業の振興により、1852年の最初の中国人移民をはじめ、1868年には元年者と呼ばれた日本人最初の移民、他にポルトガル、韓国、フィリピンなど、様々な国から大勢の移民がやって来ます。彼らはそれぞれ異なった文化背景、宗教を抱えて移住しました。これによりハワイは人種のみならず、宗教、文化すべにおいて多様性を持つようになったのです。

話は少し外れます。私は1980年代に4年間シンガポールで生活をしましたが、この国は大変興味深い国でした。シンガポールの国歌は、マレー語です。民族は中国人76%、マレー人15%、インド人7.5%(2019年外務省資料による)、言語に関しては、国語とされているのはマレー語、公用語が英語、中国語、マレー語、タミール語。そして、年4回新年があり、Chinese New Year(中国), Hari Raya Puasa(マレー), Deepavali(インド), New Year’s Day(キリスト教)です。大統領も各民族集団から選ばれ、現在はマレー民族の初の女性が大統領となっています(大統領は行政権を持ちません。実際に政治の主導権を持つのは首相です)。国内の政治経済に関しては最多人口である中国系の人々が中心となっていますが、中国系の間でも、広東語、福建語など出身地によって全く言葉が通じず、英語が苦手の年配の中国人は共通語として北京語を使います。食べ物も、一般的にインド系の人は牛肉を食べず(牛は神)、マレー系は豚を食べず(イスラム教)、中国人はなんでもOK(チャイナタウンに行くと、サル、コウモリなども売っています)。このような大きな違いを抱えながら、互いの民族はそれぞれの存在を尊重し、民族間の諍いはなく、内政的に大変安定した状況です。多様性を認めたうえで、みな同じシンガポーリアンなのです。

ハワイでお世話になった日系二世のヨコヤマさん一家も、徐々に多様性を持つようになりました。当時(1970年代)ヨコヤマさんの長女に子供がいなかったため、養子をもらうことになったのですが、ヨコヤマさんは日本から紹介を受けると決めていました。そうすれば決して混血にはならないということが理由でした。おそらく二世ぐらいまでは、そういう考えの日系人が大多数でした。しかし、甥のジョージ一家の次女は、フィリピン人が4分の1入っている男性と結婚しました。それは当然の流れなのです。宗教的にも、ヨコヤマさんは仏教徒で自宅には立派な仏壇が飾ってありましたが、妹のシマダさんはクリスチャンでした。ヒロのホンガンジで盆踊りがあれば、日系人のみならず多くの白人がやって来て、浴衣を着、うちわを持って楽しそうに輪になって踊ります。

日系人の集団墓地の入り口に置いてある仏像
※日系人の集団墓地の入り口に置いてある仏像
お大師さん1 お大師さん2

※ハワイ島ホノムの町にあるお大師さん 真言宗Henjoji Mission お坊さんのお経は日本語だが、説教は英語で行われる
違う文化、宗教が接触すれば、それらが混合して新しい文化が生じ、また並立、共存して互いを尊重しあう、それが理想の文化交流なのではないでしょうか。世界が狭くなり、簡単に行き来ができる現代です。世界中でハワイやシンガポールと同じように『シンクレティズム』の現象が起き、『異なる文化の相互接触により多様な要素が混淆・重層化』すれば、現在あちこちで起きている国同士の諍いも、少しは減っていくのではないでしょうか。困難であることは分かっています。でも、ジョン・レノンが言っているではありませんか。

Imagine there’s no countries
It isn’t hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion, too

You may say I‘m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one
『Imagine』より
作詞・作曲: ジョン・レノン/オノ・ヨーコ

世界の現状を見れば、確かにこれは夢のような話かもしれません。しかし、時間をかけてでも、いつかこのような世界が生まれることを、私は心から願います。地球上にまだ人間が存在できている間に、そんな理想の世界が現実となりますように。
“John, I will surely join you.”

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI‘I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。

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