やさしいHawai‘i 第79回 「ハワイの歴史に埋もれたナヒエナエナ」
2023年5月28日、マウイ島で最古のワイオラ教会は、創立200年を祝い賑やかに祝賀行事が行われていました。ここには王族の霊廟が祀られています。祀られているのはカメハメハ大王の聖なる妻ケオプオラニ(第78回出)、娘のナヒエナエナや身近な親族など5人、強い影響力を持っていた宣教師のリチャーズなどです。(カメハメハ大王以下主要な王族の墓はオアフ島ヌウアヌの高台にあるロイヤル・モザリアムに祀られています)。
ここにはさらにもう一人、カウアイ島の最後の首長カウムアリイが祀られています。(カメハメハ大王と血縁関係のない人物が、なぜここに祀られているのでしょうか? 血縁関係がないどころか、一時期はカウアイ島をめぐりカメハメハ大王と敵対していた人物です。この不思議をどこまで解明できるか、次回はこのカウムアリイについて述べたいと思います)
そんな祝賀ムードからわずか2カ月余り、2023年8月8日、突然の悲劇が訪れました。この日、マウイ島ラハイナの山側からは、強い北東の風が吹いていました。火災の原因はまだ特定されていませんが、可能性としては、老朽化した送電線が、この強い北東の風により損傷し、極度に乾燥していた草木に発火したとみられています。炎は強風にあおられ、時速100キロ近い速度で海の方向に向かいました。ラハイナの町は、あっという間に猛火の中に包まれてしまったのです。この火災による死者数は、行方不明者も含むと100人を超えました。
大好きだったラハイナの町。19世紀にはハワイ王国の首都となり、王族がこよなく愛した町ラハイナ。カメハメハ大王の聖なる妻ケオプオラニが最後の地として選んだラハイナ。そしてこの町を舞台に、今回取り上げるケオプオラニの第二子カウイケアウオリ(のちのカメハメハ3世)と、娘のナヒエナエナの物語が展開するのです。
前回(第78回)で述べたように、カメハメハ大王の聖なる妻ケオプオラニには、3人の子供がいました。第一子はリホリホ(のちのカメハメハ2世)、第二子がカウイケアウオリ(のちのカメハメハ3世)。そして最後の子供、一人娘のナヒエナエナ。かつてのハワイでは子供を養子に出すことは通例でした。そこには王族の子供を養子にすれば、いずれ王位に就く人物の後見人として、権力の一端を握れるという計算もあったことでしょう。しかしケオプオラニは、ナヒエナエナだけは手元に置き、深い愛情をもって育てました。それまで何人もの子供を亡くしていたことを思うと、他人に預けるとナヒエナエナが無事に育つかどうか分からないという不安がケオプオラニにはあったに違いないと思うのです。
その後、体調の悪化と共にケオプオラニは、二番目の夫ホアピリや信頼していた数人の宣教師を伴って、生活の基盤をマウイ島に移します。もちろん娘のナヒエナエナも一緒でした。そして死の間際にハリエットという洗礼名を受けクリスチャンとなったケオプオラニは、1823年9月亡くなります。
同年11月カメハメハ2世は、イギリスの後ろ盾を求めてロンドンへ向け出港します。ところが西欧の病に対し免疫がなかったカメハメハ2世は、はしかに罹病し、翌年命を落とします。
長兄カメハメハ2世の亡き後、カウイケアウオリはわずか10歳でカメハメハ3世となりました。カメハメハ3世と1歳違いの妹ナヒエナエナは、9歳にしてはずいぶんと大人びていて、首長たちは彼女と兄カメハメハ3世との結婚を強く望みました。
兄と妹の結婚は、古代ハワイでは高貴な血筋を純粋に保つために、伝統的に認められていたことでした。多くの首長たちは、ナヒエナエナとカメハメハ3世が結ばれることを二人が幼少のころから願っていました。1824年9月には高位の首長たちが集まり、いよいよこの結婚を勧めようとしましたが、宣教師たちは、たとえそれがハワイの伝統で認められていようと、決して許されることではないと強く反対します。
ナヒエナエナは、幼少のころからフラやメレなどのハワイの伝統に囲まれて生活していました。一方で母親のケオプオラニは、キリスト教を信仰することがどれほど奥深いものであるのか、古来のハワイ信仰の、一体なにが間違っていたのかを十分理解しないまま、ひたすらキリスト教に傾倒していったのです。そんな、キリスト教を強く信仰するようになった母と、常に身近にいたリチャーズなどの宣教師の厳しい指導の下で、ナヒエナエナの心は大きく揺れ動きます。
この時期のナヒエナエナの苦しみは、想像に難くありません。幼いころから慣れ親しんだハワイの文化。それは自由で楽しく陽気で、彼女にとって日々の喜びであったのです。加えて、周囲には兄との結婚を勧めようとする多くの首長たちの存在がありました。母親の死に続く長兄の死で、兄と妹の絆はますます強くなり、互いになくてはならない存在となっていきました。
兄は妹への思いと、幼くして背負ったカメハメハ3世という重さに耐えかね、酒浸りになり乱れた生活を始めました。ナヒエナエナは母の教えに従い、そんな兄を何とか立ち直らせようとしますが、一方では兄への強い思いを断ち切ることができません。同時にそれがキリスト教の教えに反することを本人が十分わかっているだけに、その苦しみは計り知れないものでした。
リチャーズなどの宣教師の必死の説得にもかかわらず、ナヒエナエナ自身が飲酒で酩酊状態になったり、教会の集まりで大声を上げたりすることがたびたび目撃され、ついに1835年5月、ナヒエナエナはキリスト教会から破門されます。それまで親代わりになっていた宣教師のリチャーズも彼女を避けはじめ、孤独の中で心の支えとなる人々を失い、彼女は精神的に混乱と破滅の道をたどるようになるのです。
そんなナヒエナエナをみて、義父のホアピリはリチャーズと話し合い、ハワイ国首相カラニモクの息子、レレイオホク(当時14歳で、ナヒエナエナより6歳年下)と結婚をさせます。
兄カメハメハ3世はこの結婚に強く反対しました。ナヒエナエナは1836年9月出産しましたが、その数時間後子供は死亡。これは夫であるレレイオホクではなく、兄カメハメハ3世との子供であると言われています。精神的に混乱をきたしていたナヒエナエナは、その3カ月後の12月、わずか21年の短い生涯を終えました。カメハメハ3世は彼女の死をひどく悼み、命日をハワイ王国の休日として、その後8年間を彼女の霊廟の近くで過ごしたそうです。
この兄妹の話は、ハワイの歴史にはあまり表には出てきません。マウイ島ワイオラ教会の人々の間では『聖なる娘ナヒエナエナ』として、語られることはあっても、歴史の中に埋もれた存在です。
ナヒエナエナに関するものは、私の知っている限りではただ1冊、Marjorie Sinclairが書いた『Nahienaena Sacred daughter of Hawaii』という本が存在します。その序文には下記のようなことが記されていました。
『A major problem in writing about the Princess Nanienaena has been that her history was largely recorded by those not of her race and culture. The data, consequently, present a limited and often biased view.』
『ナヒエナエナについて書く際の大きな問題は、彼女の歴史が、彼女の人種や文化に属さない人々によって記録されてきたことである。その結果、データは限定的で、しばしば偏った見解を示すことになる』(DeepL翻訳による)
これは、歴史や伝記を読むときの大前提として、大変重要なことだと思います。特に今回のナヒエナエナという人物は、古代ハワイの文化からみた姿と、キリスト教の価値観による西欧文化から見た姿は、大きく違うからです。何が正しいか、間違っているかではなく、歴史の内側と外側の両面から見る必要がある。その時代の文化の中で、その人物がどのように人生を生きぬいたのか、それを感じていただきたいと思います。
この兄と妹は、現代の倫理観念から言えば、もちろん肯定することはできないことです。ナヒエナエナが10代20代を過ごした1830年代は、依然として力を持っていた古代ハワイの文化を担う首長たちが存在し、それに相対するキリスト教を代表とする西欧文化とのせめぎあいの時代でした。それはナヒエナエナとカメハメハ3世だけの苦しみではなく、この時代に生きた王族たちは多かれ少なかれ、みな押し寄せる西欧文化の波の前に、なすすべがなかったのです。抗しがたい大きな新しい文明の波にのまれていった人々の悲劇が、そこにあったのだと思うのです。
【参照文献】
※『Nahienaena Sacred Daughter of Hawaii』 Marjorie Sinclair著
※ハワイ州観光局アロハプログラム ※https://english.hawaii.edu/marjorie-putnam-sinclair-edel-reading-series/ ※https://www.britannica.com/biography/Nahienaena ※https://evols.library.manoa.hawaii.edu/bitstreams/424997b1-0d04-467d-b109-3c326bff06e5/download ※https://imagesofoldhawaii.com/nahienaena/ ※https://imagesofoldhawaii.com/nahienaena/—————————————————————————————–
Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
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