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やさしいHawai‘i 第81回 フメフメの28年の人生

やさしいHawai‘i 第81回 フメフメの28年の人生

【最近の私】数年ぶりにハワイへ行くことになりました。今回は長男一家と一緒なので、これまでとは違った楽しみが期待できそう。ハワイ生まれの長男にとっては、生まれ故郷を訪れることになり、お世話になったハワイのおじいちゃん、おばあちゃんのお墓参りが第一の目的です。

登場する人物名

カウムアリイ     カウアイ島最後の王

フメフメ       平民の女性との間に生まれた、カウムアリイの長男の幼名

ジョージ       アメリカへ発つときに、父カウムアリイがフメフメに付けた名前

カアフマヌ      カメハメハ大王のお気に入りの妻 

カメハメハの死後、カウアイ島の王カウムアリイを誘拐して強制的に夫にした。

ローワン       フメフメをアメリカへ連れて行った船長

コッティング     ローワンが2年後にジョージを預けた人物***********************************************************************

当時のハワイに関しては事実確認が困難な点が多く、長男のフメフメに関しても明確な情報をつかむのが難しいところです。それを踏まえたうえで、資料を集めてフメフメの姿をとらえていきたいと思います。

前回(第80回)、カウアイ島の王カウムアリイには多くの妻がいた、と書きました。調べによると、少なくとも5人いて、彼が20歳の時(1798年)平民の女性との間に生まれたのが、長男のフメフメです。

1804年、このフメフメが6歳※1(4歳、7歳、12歳など様々な情報があります)の時、父カウムアリイは彼を、以前からカウアイ島に出入りしていたアメリカの貿易船船長ローワン(Rowan)に託しました。理由の第一はフメフメにアメリカで英語を学ばせるためですが、当時カウムアリイの妻のひとりが、将来の王位継承の不安材料になると、フメフメをカウアイ島から出すようカウムアリイに働きかけたようです。カウムアリイは、島に出入りしていたロシアやイギリス、アメリカの船長たちと、持ち前の性格で気軽に交流しており、ローワンをすっかり信用してしまいました。そしてローワン船長に、息子の扶養や教育費として、当時の金額にして7~8千ドルを渡したといわれています。

カウムアリイは、島に出入りしていたロシアやイギリス、アメリカの船長たちと、持ち前の性格で気軽に交流しており、ローワンをすっかり信用してしまいました。そしてローワン船長に、息子の扶養や教育費として、当時の金額にして7~8千ドルを渡したといわれています。

ここから、わずか6歳のフメフメの長い未知の旅が始まります。親から離れ、どこへ向かうかも分からず、異国の言葉を話す白人たちの中で全くの異邦人であったフメフメにとって、この旅はどれほど不安で心細いものだったことでしょう。

カウムアリイは、アメリカへ発つ息子のフメフメにジョージという呼び名を付けました。これは憧れの英国王室の名前がジョージであったこと、そして親しくしていたイギリス海軍士官の名前がジョージ・バンクーバーであったのが理由のようです。

さて、ジョージと名を変えたフメフメは、最初の2年間ローワン船長に連れられてアメリカのマサチューセッツで暮らします。ローワンはカウムアリイから多大な金額を受け取ったにも関わらずそれをすべて使い尽くし、手に余ったジョージを学校の教務の仕事をしていた(school keeperとあります。教務のような仕事だと思いますが、教師とある資料もあります)コッティング(Cotting)に預けます。間もなく彼は教務の仕事を辞めて他の町に移り、彼に付いていったジョージは大工見習や農家の手伝いなどの力仕事をさせられました。カウアイ島の王の息子として6歳まで過ごしたジョージにとって、これらの力仕事は大変つらい生活だったに違いありません。

コッティングと共に6年近くを過ごしたジョージは、何とか故郷のハワイへ帰る道を探ろうと、ついに彼の元を離れます。その後1815年、アメリカ海軍に籍を置き、地中海などへも航海し、戦争にも加わって大けがをする経験もしました。ジョージはこの間、自分を『Prince George』と名乗っており、自分がカウアイ島の王の息子であることを、一瞬たりとも忘れたことはなかったようです。いつか故郷に戻れば、父の跡を継ぎ、いずれ自分は王となることに、何の疑問も感じていませんでした。

そして1816年春にアメリカに戻り、American Board of Commissioners for Foreign Missions (ABCFMアメリカ海外伝道評議会)の庇護を受けるようになります。ジョージは18歳になっていました。当時アメリカではニューイングランドを中心に、ハワイやタヒチなどから若者を集め、アメリカ本土でキリスト教を学ばせたのち、再び故郷の国に送り返して布教活動をさせるという、海外伝道への機運が高まっていました。

ここでジョージは、ハワイからやって来た数人のハワイ青年たちに巡り合います。長い間ハワイを離れていたジョージは、カウアイ島の王である父親の名以外のハワイ語をほとんど忘れていたのですが、この青年たちからハワイ語を学び、再び故郷へ戻って王位を継ぐという夢を膨らませていきました。

その夢がついに叶う日がやって来ます。ハワイへ向けた初のキリスト教宣教師団は1819年ボストンを出発し、南アフリカのケープホーン岬をめぐり、半年をかけた大変な旅の末、ようやく翌年ハワイに到着しました。そしてその宣教師と共に送られてきた4人のハワイの青年たちの中に、ジョージがいたのです。3人の青年はハワイでのキリスト教布教のために、すでに洗礼を受けていましたが、ジョージはキリスト教徒になることに依然躊躇していました。

Brook Kapūkuniahi Parker’s 2017 painting of the “Father and Son Reunion” 

「父と息子の再会」 2017年Brook Kapukuniahi Parker の作品

〔ジョージが父親カウムアリイと再会した時の様子を表わした絵。中央で手を取り合っている右側が父カウムアリイ、左がジョージ〕

父のカウムアリイは、息子ジョージがアメリカで死亡したという情報を受けていました。彼の生存を諦めていたカウムアリイは、16年ぶりに思いがけず息子に巡り合うことができ、心から喜んだのは、言うまでもありません。

ジョージはハワイへ戻ると、自分の名前を再びフメフメに変えました。彼は6歳まで過ごしたかつてのカウアイ王国に憧れ、幼少時のハワイでの生活の復活を夢見て、当時の幼名を使うことにしたのです。16年もの間の大変辛いアメリカでの生活ののち、夢に描いたカウアイ島の王である父親カウムアリイとの再会を果たしたジョージでしたが、喜びもつかの間、彼の本当の悲劇はここから始まるのです。

ハワイ王国は、1819年カメハメハ大王が亡くなります。その後彼のお気に入りの妻カアフマヌが、事実上カメハメハ大王没後の実権を握ります。彼女はこれまでの社会や宗教の基盤となっていたカプ制度を廃止し、ヘイアウ(神殿)を取り壊したため、人々は頼るものを失っていました。

1820年宣教師団がハワイへやって来たのは、ちょうど人々の心が真空状態になっていた時でした。キリスト教の影響を受けたカアフマヌ(第76回)やケオプオラニ(第77回)など多くのハワイの王族は、古代ハワイの伝統的宗教に代わる、新しい神に出会います。ジョージの父カウムアリイもその一人でした。こうしてハワイの社会は、たちまちキリスト教によって大きく変革してしまったのです。

ジョージ改めフメフメは、そんなハワイ社会が変わっていくのを目前にして、大きな戸惑いを感じます。帰国後間もなく、洗礼を受けクリスチャンになりはしたものの、フメフメは、急激に広まった厳しいキリスト教の規律に我慢ができず、堕落した白人たちと一緒に酒を飲み、ギャンブルにふけりました。

1821年には頼りにしていた父カウムアリイがカアフマヌに誘拐されてオアフ島に移り住み、フメフメはカウアイの王となる夢を完全に失います。しかし父カウムアリイもまた、期待をかけていた長男フメフメの生活が堕落していくのを知り、絶望を感じたのです。そして1924年死を迎える時には母国カウアイ島への執着を失い、カウアイ島の所有権をすべてカメハメハ2世に譲り、フメフメには何も残しませんでした。カウムアリイが自分の墓を、カウアイ島ではなく、マウイ島のケオプオラニのそばに置いてほしい、と遺言を残した(第80回)理由の一つが、ここにあったのだと、私は思います。

フメフメは、父親のカウムアリイがカウアイ島の権利をすべてカメハメハ2世に譲ったことに対し、当然不満を持ちました。そして同じように不満を感じた首長たちと共に、カメハメハ王家に対し謀反を起したのです。しかしフメフメ達に勝ち目はなく簡単に敗北し、反乱軍の一部は殺され、一部は山間部へ逃げ込みました。2週間ほど後、追手によって山の中で発見されたフメフメは、ほとんど何も身に着けていず、手にはラム酒が入った竹筒を持ち、心身ともに疲弊していたそうです。ホノルルに連行されたフメフメはおよそ2年後インフルエンザに罹り、最期は悪魔に襲われる恐ろしい悪夢の中で苦しんで亡くなったということです。

フメフメの人生はわずか28年で終わりを迎えました。6歳までは王位を継ぐという、輝かしい未来が待っていました。その後未知の世界アメリカに送られ、16年の厳しい生活の末、やっと母国に帰って来た時には、憧れていた幼少時のハワイはすでに消失していました。彼はキリスト教によって大きく変わってしまった社会に適応できず、自ら死に向かっていったように思います。悲しい人生、と言ってしまえばそれまでですが、歴史の大きなうねりの陰には、こうして消えていった人生が数多く存在するのだろうと思います。

参考資料

●『A narrative of five youth from the Sandwich islands, viz. Obookiah, Hopoo, Tennooe, Hahooree, and Prince Tamoree, Now Receiving an Education in This Country』

https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=njp.32101078190426&seq=7&format=plaintext

●『Shoal of Time』 by Gavan Daws  University of Hawaii Press

●『ハワイ人とキリスト教』 井上昭洋著 春風社

●『George Prince Tamoree: Heir Apparent of Kauai and Niihau』 by Anne Harding Spoehr   Publisher:Hawaiian Historical Society

● 『George Prince Kaumuali’I, the Forgotten Prince』 by Douglas Warne

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
 
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