やさしいHawai‘i 第83回「オプカハイア」
今年の3月、久しぶりにハワイ島を訪れた時のことです。ハワイ島ヒロはおよそ50年前に夫の赴任で2年ほど生活をした場所。当時大変お世話になった日系二世の方々は高齢ですでに亡くなっていますが、その後も三世、四世、そのお子さんたちと、半世紀にわたる嬉しいお付き合いがいまだ続いています。
夕食のあと、コーヒーを飲みながら懐かしい話で盛り上がっていた時、「アツコ、なぜあなたはこの人を知っているの?」と友人の一人が私のクリアファイルを見て尋ねました。そのころ、私は次のコラムに書くため『オプカハイア』について調べ物をしていて、ヒマな時に読もうと資料をファイルに入れて持ち運んでいたのです。その友人は敬虔なクリスチャンでした「オプカハイアという人物は、ハワイで最初にクリスチャンになった人なの。とても大切な人」。私は今回コラムに取り上げようと思っていた人物が、ハワイの人々にとって大変重要な存在であることを、まったくの偶然で知ることになったのです。
さて、前回第81回(https://www.jvta.net/co/yasasiihawaii-81/)で述べたフメフメは1798年、カウアイ島の王カウムアリイの息子として生まれました。6歳でアメリカに渡って波乱万丈の人生を送り、22歳で故郷ハワイに戻ったあとは、急激に広まったキリスト教に悩み苦しみ、28歳の若さで人生を終えました。
そのフメフメより6年早い1792年、ハワイ島に生まれた少年がいました。幼少期の大変辛い経験を乗り越えた後アメリカに渡り、フメフメとは違ってハワイへ帰ることが叶わないまま、アメリカで26歳の人生を終えました。
似たような人生ですが、この二人の生き方には大きな違いがありました。フメフメはキリスト教に苦しんだ一方、この青年はキリスト教に出会い、新しい唯一の神を知ったことで救われたのです。今回はそんな人生を取り上げたいと思います。
彼のハワイアンネームはオプカハイア、ハワイ島カウに生まれました。カウはハワイ島最南部に位置し、第74回(https://www.jvta.net/co/yasasiihawaii-74/)で取り上げたハワイの言語と文化に多大な貢献をしたメリー・カヴェナ・プクイ女史の生まれ故郷でもあります。東部には有名なプナルウ黒砂海岸が、西岸にはキャプテンクックが殺害されたケアラケクア湾があります。またキラウエア火山によって他の地域と隔離され、内部には砂漠地帯が広がっています。他の生活圏から遠く離れ、独自の文化を保ってきたカウに対する私のイメージは、乾燥した荒れた地域といった感じでした。
そんな地域に生まれたオプカハイアの両親は平民ですが、母の血筋をたどるとカメハメハの遠縁になるようです。当時カメハメハはハワイ諸島の統一を図り、各地で激しい戦いが勃発。オプカハイアが生まれたハワイ島カウの小さな村でも、戦いが頻繁に起きていました。ある日この村も敵に襲われ、父親は家族を連れて近くの洞窟に隠れます。しかし喉の渇きに耐えきれず、水を求めて出ていったところを敵に見つかり、両親ともに彼の目の前で惨殺されてしまったのです。オプカハイアは生後2~3カ月の幼い弟を背負い、必死に逃れようとしましたが、敵の放った槍が弟に刺さり、そのまま弟は彼の背中で亡くなりました。
両親を惨殺した敵は、まだ10歳ほどの幼いオプカハイアを生かしておいても危険はないと自宅に連れて帰り、一緒に暮らし始めます。オプカハイアにとって両親を殺した相手と暮らすことはどれほど辛いことだったでしょうか。そんな生活が1~2年続いたのち、ケアラケクア湾にあるハワイ島で最も神聖な神殿(ヒキアウヘイアウ)のカフナ(神官)が、彼の母方の叔父であることが分かります。その叔父はオプカハイアを引き取って教育し、カフナとして育てようと試みました。
しかし両親を惨殺され幼い弟も刺殺されたオプカハイアにとって、ハワイは悪夢の地でしかありませんでした。両親も弟もいないこの地は心に安らぎを与えてはくれない、幸せはここには存在しないという思いで、どこでもいい、ハワイから遠く離れた他の地で暮らしたいと、オプカハイアは強い憧れを持ちます。ちょうどそのころ、ニューイングランドからケアラケクア湾を訪れていたアメリカの商船「トライアンフ号」が停泊していました。カフナの叔父や祖母が強く反対したにもかかわらず、オプカハイアはついに未知の世界アメリカへと旅立つ決心をし、ケアラケクア湾を泳いでトライアンフ号に乗り込みます。1809年、オプカハイアは16歳になっていました。
この船には、同じハワイ人のホポオ(Hopoo。のちにトーマス・ホプと呼ばれるようになる)も乗船しており、親しくなった二人はその後も互いに助け合う間柄となります。オプカハイアは船長から、英語名ヘンリー・オボオキアを与えられ、同船していたイェールカレッジの生徒、ハバードから、簡単な英語の手ほどきを受けます。
ついに憧れの地アメリカに到着しましたが、オプカハイアは自分の英語力の不足を痛感し、それを嘆き、イェールカレッジの階段で泣いていました。当時イェールの学生だったエドウィン・ドゥワイトが彼を見つけ、泣いている理由を尋ねると、オプカハイアはこう答えます。「私はもっと学びたいのに、誰も私に教育を与えてくれない」。それを聞いたエドウィンは、親族のティモシー・ドゥワイトに彼を紹介します。彼の学習への熱意は大変真摯なものだったので、その後も次々と教育を得られる良い環境に恵まれました。
ティモシー・ドゥワイトは、イェールカレッジの学長であり、またAmerican Board of Commissioners for Foreign Missions (ABCFMアメリカ海外伝道評議会)の創設者のひとりでした。そして、オプカハイアは英語教育だけではなく、このアメリカ海外伝道評議会を通してキリスト教を学び、深く影響を受けていくのです。オプカハイアのキリスト教への強い思いには、ハワイで両親を惨殺された時の記憶が強く心に残っていたからでしょう。アメリカ在住のハワイの同胞たちに、石や木を神とする古代ハワイの原始宗教は罪であり、唯一の神キリストを信じることに真の幸せが存在するのだと、彼は熱心に説きました。そして1815年4月、自らハワイ人最初のキリスト教徒となったのです。
その後1817年には、アメリカ海外伝道評議会が、フォーリン・ミッション・スクールを設立。初年の生徒は⒓名で、その半数がハワイ人でした。彼らにキリスト教の教育を与えた後故郷へ返し、布教活動を広めさせることがこの機関の目的でした。オプカハイアは農作業などを手伝いながら、各地で積極的に布教活動を行いました。ハワイに生まれ育ち、その後真の神に目覚めてキリスト教徒となったという彼の説教は、布教に大きな力となり、各地で献金を集めるのに大いに役立ったそうです。
オプカハイアは180センチ弱の身長で上品で堂々とした風格をしていました。知性に溢れたまなざしにオリーブ色の肌と黒い巻き毛の魅力的な外見を持ち、その性格は優しく穏やかでした。アメリカで共に暮らした人々に対する深い愛情は、ハワイで失った両親や弟への思いが根本にあったからでしょう。
有能だったオプカハイアは、英語のみならずギリシャ語、ヘブライ語も学び、聖書をハワイ語に訳し、将来は故郷のハワイへ戻って学校を設立し、キリスト教の布教に努めたいという大きな夢を抱いていました。
第81回(https://www.jvta.net/co/yasasiihawaii-81/)に述べたように1820年、満を持してアメリカから最初の宣教師団がハワイにやって来ました。そこにはジョージ・カウムアリイ(幼少の名前はフメフメ)や、オプカハイアがトライアンフ号で知り合ったハワイ人のトーマス・ホプも参加していました。しかしあれほど故郷ハワイへ戻ることを願っていたオプカハイアは、この宣教師団に加わることはできませんでした。彼は1818年、チフスという今ではいくらでも治療方法がある病に倒れ、すでにこの世を去っていたのです。わずか26歳でした。
オプカハイアが亡くなった翌年、彼が生前書き綴った文章や手紙をエドウィン・ドゥワイトがまとめ『Memoirs of Henry Obookiah』という小雑誌を発行しました。そこには彼がイェールカレッジの階段で泣いていた話も綴られ、多くの人々の共感を呼び、世界に広く知られるところとなりました。当時ベストセラーとなったこの本の売り上げは、献金集めにさらなる一役をかったようです。
カウアイ島の王の息子フメフメは、アメリカからハワイに戻ったのち、故郷で急激に広まっていたキリスト教に苦しみ、悪夢に襲われながら28歳で死を迎えました。一方オプカハイアは、ハワイに帰ることを夢見ながら志半ばで病に倒れ、アメリカで死を迎えました。しかし彼にとって死は、親を失った悲しみから救ってくれた神の元へ召されることです。辛い思い出のあるハワイですが、生まれ故郷への思いは強く、友へ残した、26歳の彼の最後の別れの言葉は、故郷への愛「アロハ・オエ」でした。(余談ですが、2012年12月、かのダニエル・イノウエ元アメリカ上院議員が亡くなった時にも最後に「アロハ・オエ」と言葉を残したそうです)
オプカハイアが亡くなって75年経った1993年、彼の亡骸はアメリカ、コーンウォールの墓からハワイ島のケアラケクア湾にある、カヒコル教会に戻ってきました。その墓碑にはこう記されています。
『OH! HOW I WANT TO SEE HAWAII!
In July of 1993, the family of Henry Opukahaia took him home to Hawaii for interment at Kahikolu Congregational Church Cemetery, Napoopoo, Kona, Island of Hawaii.
Henry’s family expresses gratitude, appreciation and love to all who cared for and loved him throughout the past years. Ahahui O Opukahaia
(『ハワイよ、私はどれほどこの地へ帰りたかったことか!』
1993年7月、ヘンリー・オプカハイアの家族は彼をハワイ島コナ、ナポオポオの、カヒコル・プロテスタント会衆派教会に連れて帰り、埋葬しました。
私たち家族は、過去に彼をいつくしみ愛してくださったすべての人々に、心から愛と感謝の意を表します。オプカハイアの家族)(扇原訳)
【参考文献】
・アロハプログラム
https://www.aloha-program.com/
〇『Henry Opukahaia A Native Hawaiian(1792-1818)』
By Edwin Welles Dwight
〇『Hawaii‘s missionary saga』 by LaRue W.Piercy
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
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