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やさしいHawai‘i 第84回「カアフマヌとカプール」(1)

やさしいHawai‘i 第84回「カアフマヌとカプール」(1)

今回の登場人物

カウムアリイ      カウアイ島の王

デボラ・カプール    カウムアリイの妻

ケアリイアホヌイ    カウムアリイの息子でデボラ・カプールの2番目の夫

カアフマヌ       カメハメハのお気に入りの妻

第80回『カウアイ島最後の王の墓の謎』で、カウアイ島の王カウムアリイの妻としてデボラ・カプールという女性が登場しました。この回では、彼女のさわりだけに触れましたが、その時から私はこの女性が気になり、どうしても彼女がどんな生き方をし、どんな人生を終えたのかを知りたくなりました

ということで、内容がすこし重なるところもありますが、デボラ・カプールをもう少し深く掘り下げながら、様々な繋がりがあるカメハメハ大王のお気に入りの妻カアフマヌと対比しながら考えたいと思います。

デボラ・カプールは1798年にカウアイ島の、おそらくワイメア生まれだろうと言われています。両親が誰であったかには諸説ありますが、当時の歴史学者カマカウによると、両親はともに高位の首長で、カメハメハの妻カアフマヌの遠縁にあたるとされています。

デボラ・カプールは大変美しく、男性を惹きつける魅力を持っていました。身長はおよそ6フィート(180センチ)体重は200~300ポンド近い(約90キロ~135キロ)と、かなりの大柄で、また聡明でもあったので、カウアイ島では注目を集める存在でした。この人物の描写から私の頭にすぐ思い浮かんだのは、カアフマヌの姿でした。彼女も同じように男性を惹きつける美しさを持ち(あのカメハメハがその魅力に引き付けられたくらいです)、大変頭がよく、体格もほぼ同じでした。ちなみにカアフマヌが生まれた年は1768年、または1777年といわれています。となると、デボラ・カプールは少なくとも20歳以上年下ということになります。

魅力あふれるデボラ・カプールは、カウアイ島の王カウムアリイの妻となります。しかしカメハメハ大王が亡くなったあと(1819年)、1821年カアフマヌはカメハメハ2世に命じてカウムアリイをホノルルへ連れ去り、強制的に自分の夫にしたのです。カウアイ島はカメハメハがどうしても制圧できなかった島で、カアフマヌはカメハメハの亡き後、島の王カウムアリイを夫にすることにより、カウアイ島への圧力を強めるという意図があったのでしょう。

カアフマヌはその後1822年8月にグランドツアーを企てました。18世紀前後、ヨーロッパでは貴族の子女が一人前になるために、大陸各地を周遊することが流行したようです。日本で言えば修学旅行、または新婚旅行のようなものと考えていいのでしょう。カアフマヌにとっては、新しいハンサムな夫カウムアリイを、各島の首長にお披露目するための旅行といったものでした。二人は大勢のお供を引き連れ、マウイ島、オアフ島、そしてカウアイ島を回りました。カウアイ島にはカウムアリイの前妻デボラがいます。カアフマヌはカウアイ島を制圧したことを首長たちに示すとともに、当然、自分の力をデボラ・カプールに誇示したいという考えがあったに違いありません。

カアフマヌにはこのグランドツアーで、さらにもう一つの大きな目的がありました。ハワイ諸島の北西には、ニホア島という、神が住むと言われていた島があります。大きさおよそ0.7平方キロメートルのこの島は、紀元1000年ぐらいから先住民が住み始めた形跡はあるのですが、その後忘れ去られていました。ハワイの人々の間では神秘の島と言われ、神話や歌の中の存在となっていましたが、カアフマヌはどうしてもこのニホア島へ、カウムアリイと共に訪れたいと思ったのです。未知の島への新婚旅行という思いだったのか、それともハワイ王国を少しでも大きくしたいという、カアフマヌの野望の現れだったのでしょうか。二人がニホア島を訪れたことを機に、その後1857年、カメハメハ4世の時にニホア島はハワイ王国の一部と宣言されました。

さて、夫を奪われたデボラ・カプールは翌年、カウムアリイと別の妻との間にできた息子、ケアリイアホヌイと結婚します。彼は、父親カウムアリイに次ぐハンサムな男性と言われていました。ところがカアフマヌはまたもや、このケアリイアホヌイを夫とすべく、デボラから奪っていったのです。

カアフマヌはカメハメハ大王の亡き後すぐに、ハワイの社会基盤となっていた『カプ』を廃止しました(『やさしいHawaii 第76回 カアフマヌのたられば』)。なぜ廃止したかには、さまざまな説があるでしょうが、私は彼女が、女性も男性と同じ権利を持つべきだと望んだためだと解釈しています。それまでの古代ハワイ社会では、女性には男性の持つ特権は与えられていませんでした。日常すべての価値判断のもとになっていたのがカプです。中でもこれまでのハワイの神をも否定したことにより、ハワイの人々のみならずカアフマヌ自身もすがるものがなくなりました。ちょうどその時宣教師の一団がやって来て、まったく新しい神、イエスをハワイに紹介したのです。それはカアフマヌ自身の心に強く響くものがあったに違いありません。また、カウムアリイの息子ケアリイアホヌイを夫にしたのち、カアフマヌは重病に陥るのですが、その時宣教師ハイラム・ビンガムの妻シビルが献身的に看病し、カアフマヌは命を救われます。そんなことも影響したのでしょう。カアフマヌは1825年洗礼を受け、エリザベスという洗礼名を受けました。

カアフマヌはその後キリスト教の教えに従い、生き方を大きく変え、人々から“New Kaahumanu”と呼ばれるようになります。カウムアリイは洗礼前の1824年にすでに亡くなっていたのですが、キリスト教の教えで父と息子の二人を夫にすることは罪であることを学んだカアフマヌは、カウムアリイの息子ケアリイアホヌイを解放し、以降は一人で生活を続けました。洗礼後の彼女はハワイの人々の教育、キリスト教の布教などに貢献し、皆から慕われます。そして1832年6月5日、親しくしていた宣教師たちに囲まれながら、以前から苦しんでいた腸のトラブルが原因で亡くなりました。

カアフマヌは確かに、ハワイ王国を築いたカメハメハ大王でさえも手を焼いたほどの強烈な個性を持った女性でしたが、彼女の強さが古代ハワイをカプから解き放ち、それまで固く閉ざされていた扉を開いたことは確かです。さらにキリスト教を学んだことにより、自分では気づかなかった一面を自覚させられたのかもしれません。ハワイに最初にやって来た宣教師の一人、ルーシー・サーストンは、カアフマヌの変化についてこのように語っています。 『カアフマヌは次第に、謙虚で親切なふるまいをするようになり、宣教師たちに対しても、あたかも自身の子供のように、母親としての愛に溢れたやさしさで接していた。(扇原訳)』

次回は、デボラ・カプールのその後について触れたいと思います。

参照した書籍

『A KAUAI READER』 Edited and Written by Chris Cook

『Shoal of Time』 by Gavan Daws University of Hawaii Press

『Ruling Chiefs of Hawaii』 by S.M.Kamakau   Kamehameha School Press

『fragments of Hawaiian History』 by John Papa Ii

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
 
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