やさしいHawai‘i 第85回 「カアフマヌとカプール」(2)
今回の登場人物
カウムアリイ カウアイ島の王
デボラ・カプール カウムアリイの妻
ケアリイアホヌイ カウムアリイの息子でデボラ・カプールの2番目の夫
シメオン・カイウ カウムアリイの異母兄弟で、デボラ・カプールの3番目の夫
ジョサイア デボラ・カプールとシメオン・カイウの一人息子
オリバー・チェイピン デボラ・カプールの4番目のパートナー
前回(第84回 「カアフマヌとカプール」(1)https://www.jvta.net/co/yasasiihawaii-84/)は、カアフマヌがどんな変遷を経て亡くなったのかについて述べました。では、デボラ・カプールは、人生の後半をどのように過ごしたのでしょうか。
二人目の夫をカアフマヌに奪われたデボラ・カプールは、その後ワイメアの白い瀟洒な小屋で暮らします。周囲にはキリスト教徒が多く、彼女は宣教師たちから英語の読み書きを学んだ、カウアイ島での最初の一人だったようです。そんな環境の中で1824年、彼女は熱心なキリスト教信者であったシメオン・カイウとの新しい愛を育み、結婚します。彼はカウアイ島の王カウムアリイの異母兄弟で、デボラ・カプールは彼から強い影響を受け、二人はしばらく穏やかで幸せな日々を送っていました。そして1825年12月4日、夫妻はホノルルのカワイアハオ教会で洗礼を受け、キリスト教徒となります。実は同じ日に、同じ教会でカアフマヌも洗礼を受け、エリザベスという洗礼名を受けています。当時ハワイで最も力を持っていたカアフマヌは、キリスト教をハワイに広めるために、各島の首長たちに洗礼を受けることを強く勧めました。この日はデボラ・カプールと夫シメオンのほかに、合計8名の首長たちが洗礼を受けました。
その後デボラ・カプールとシメオンはワイルアへ移り、新しい教会の設立を計画しながら、ジョサイアという息子も生まれ、しばらく幸せに暮らします。しかしその平穏な時も、長くは続きませんでした。1837年にワイルアでの新しい生活が始まって間もなく、夫のシメオンが突然、脳梗塞で亡くなるのです。
デボラは、三たび夫を失うという悲しみを味わうことになってしまいました。彼女が悲しみと混乱の日々を送っていた時、オリバー・チェイピンという若い既婚男性と生活を共にするようになります。これはキリスト教の規範に違反すると、デボラは教会から破門され、さらに彼女が島の人々から大変人気があることをカウアイ島の知事がねたみ、デボラはオアフ島に追放されて、極貧の生活を強いられます。しかし1838年、カメハメハ3世の助言もあり、再びカウアイ島へ戻ることができ、その後教会への復帰もかないました。そして、教会の建設に協力し、キリスト教を広めることに力を注ぎました。
当時は現代のようなホテルなどない時代でしたが、デボラはワイルア川の河口に所有していた大きな家に、島を訪れる多くの人々を受け入れました。この時代では大変貴重なナイフとフォークを使い、珍しい紅茶と砂糖で歓待し、宿泊施設も備えたこの家は、“Deborah’s Innデボラの宿”と呼ばれ、20年にわたり多くの旅人を楽しませました。食事のメニューには、バターやミルクを使い、野生のアヒル料理など、当時カウアイ島ではなかなか手に入らないような材料を使って、旅人を迎えました。しかし1850年には一人息子のジョサイアが亡くなり、その後デボラは島の反対側へ居を移し、そこで惜しまれながら1853年8月、55歳の人生を閉じました。彼女の埋葬された場所は、いまだに知る人はいません。
1852年、ジョージ・ワシントン・ベイツという、旅行作家がカウアイ島を訪れ、デボラ・カプールにインタビューをしています。
『デボラ・カプールは床に美しいマットが敷いてある素敵な石造りの家に住んでいた。彼女の雰囲気は気さくで心地よく、品格があった。とても大柄な女性だが体はしまっており、身長はほぼ6フィート(180センチ)、体重は200~300ポンド(90キロ~135キロ)ほどだろうか。年齢は60歳を超えていたように思う。彼女の会話は大変陽気で楽しいもので、これまでも多くの外国人を親切に受け入れてきたという評判通りの人物だった・・・(扇原訳)』
このインタビューはデボラが亡くなる1年前のものなので、年齢は54歳でしたが、ジョージ・ベイツには、もっと高齢に感じられたのでしょう。
私はこのデボラ・カプールの人生を調べ、彼女のたくましさを思い知りました。何が起きても、何を失っても、彼女は決してあきらめず、前に進んだのです。それはもしかして、カメハメハも手を焼いたカアフマヌよりも、ある意味で強い生き方をした女性だったのかもしれません。
最後に、このDeborah’s Inn (デボラの宿)のその後について。
主を失った建物はあっという間に荒廃するものです。デボラが島の別の場所に居を移してから、このDeborah’s Inn は、たちまち自然の中に埋もれていきました。かつて友人を乗せ、川を下っていったカヌーは土手の近くにさび付いて残されていたそうです。
計画が起こった時、ここはハワイの大切な歴史文化を背負った重要な場所であると、人々から開発反対の声が上がり、長い間論争の的になっていました。しかし1953年、ついにココ・パームス・ホテルが完成。ここがあの有名なプレスリー主演の『ブルー・ハワイ』の映画の舞台になったのです。ハワイ式の結婚式が行われ、庭ではトーチが灯され、大人気のホテルとなり、日本からも新婚旅行に訪れた人々が大勢いました。
しかし大成功を収めたこのホテルも、1992年カウアイ島を襲ったハリケーン・イニキによって大きな被害を受け、加えて火災にもあって壊滅状態になります。それから30年、荒れ果てたままのココ・パームス・ホテルは、ハワイの人々と開発グループとの間でさまざまな変遷を経ますが、ついにハワイの文化・宗教を尊重したうえで再開発をするという歩み寄りが成立。現在2026年のリニューアル・オープンに向け、ホテル再開への計画が進んでいます。どんなトラブルが起きても何とか切り抜け、先へ進む道を見つけ出すこのココ・パームス・ホテル。まるでデボラ・カプールの生きざまのようです。
参照した書籍
『A KAUA’I READER The exotic literary heritage of the Garden Island』
Edited & Written by Chris Cook Published by Mutual Publishing
『fragments of Hawaiian History』 by John Papa Ii
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
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