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やさしいHawai‘i 第86回 ヘヴァヘヴァ(1)

やさしいHawai‘i 第86回  ヘヴァヘヴァ(1)

1820年アメリカから宣教師を乗せた最初の船がやって来た後、古代ハワイはキリスト教という新しい西洋の宗教、新しい神の出現に国中が揺さぶられました。

それまで古代ハワイの人々は、生活の隅々までが厳しいカプ(禁止事項)に縛られていました。その掟を破れば、多くの場合死の刑罰が待っている厳しいカプ。しかしカメハメハ大王が亡くなった直後、彼の妻たち、中でも力を持っていたカアフマヌやケオプオラニなどの女性たちの間から、カプを廃止するという動きがふつふつと沸き起ってきました。それは大王の後を継いだカメハメハ2世をも動かし、ついにカプ廃止の宣言をさせるまでに至ったのです。

そこに現れたのがヘヴァヘヴァ(Hewahewa・・・日本語表記はヘワヘワもあります)という人物です。彼が古代ハワイのキリスト教化に大きくかかわっていたことだけは分かっているのですが、多くの謎に包まれるこの人物は、私にとって神秘の存在でした。彼について、さらにどうしても知りたくなり、今回はこのヘヴァヘヴァという人物に焦点を当てて考えようと思います。

ヘヴァヘヴァは、カメハメハ大王、続くカメハメハ2世の時代を通して、カフナ・ヌイという、カフナ(神官)の中で最高の立場にいました。古代ハワイの神々に仕えたカフナの中で最も力を持っており、カメハメハ大王も頼りにしていた人物が、なぜあるときを境にその立場を捨て、自らヘイアウ(神殿)に火をつけ、ハワイの伝統の神々を否定し、キリスト教に改宗したのか、そこが私の一番の疑問でした。

ポリネシア人の移動経路 篠遠喜彦博士の資料より

その疑問を解くにはまず、ハワイの遠い昔に戻らなくてはなりません。

ハワイにいつ頃どんな人々が渡って来たのかには、諸説ありますが、上記のポリネシア人の移動経路を研究した篠遠先生の説では、サモアやトンガから東に移動したポリネシア人(上記図の1)は、マルケサスから北に移動し、紀元500年から700年ごろハワイへやって来たと言われています(上記図の2)。また紀元1000年から1300年ごろにはタヒチとハワイの間に、ダブル・カヌーでの交流があったと考えられています(上記図の6)。

この謎に包まれたヘヴァヘヴァの祖先はパアオという人物で、漁師兼神官のようなことをしていました。彼は11世紀から13世紀ごろの間に、タヒチあるいはサモアからハワイへやって来たと言われています。つまり上記の図の6にあたります。

パアオには仲の悪いロノペレという兄がいました。兄は、ある時大切に育てていた野菜や果物が盗まれていることに気づき、弟のパアオの息子が盗んだに違いないと疑います。パアオはその疑いを晴らすために、息子の腹を裂き兄に見せるのですが、当然息子は死んでしまいました。パアオはそれを逆恨みし、兄の息子を殺してしまいます。ついに国にいられなくなったパアオは追い出され、仲間40人余りを連れハワイ島のプナへたどり着きます。そして最初のヘイアウであるワハウラヘイアウを造り、そこを最初の拠点としました。これらのパアオに関する情報は伝承が主で、研究者によっては神話として扱われることもありますが、彼がその後ハワイに与えた社会的宗教的影響は無視することができません。

もともとハワイの社会の宗教は、穏やかで慈悲深い神々に守られていました。これらの神々は人間と同じように欠点があり、間違いをし、すぐに怒ったりやきもちを焼いたりします。カプもゆるやかで、人間と神の距離は近く、ヘイアウに塀などなくオープンな状態でした。

パアオがハワイへやって来た当時、ハワイ島では首長カパワの悪政に多くの人々が苦しんでいました。そこでパアオは人々を集結してカパワを倒します。住民から信頼を得、首長になるように勧められたパアオですが、彼はそれを固辞し、その代わりにサモアからピリという高位の首長を呼び寄せました。

パアオはもともと神に仕える身だったので、タヒチから戦いの神クーを伴ってきました。そして最初に上陸したハワイ島のプナ地域から北部コハラに移動し、モオキニヘイアウを建てました。これはもともと5世紀ごろに、高位の首長が造ったヘイアウでしたが、それをパアオが再建。生贄を奉げるルアキニヘイアウと定め、その後の活動の拠点とし、自らはカフナとして人々の生活の隅々にまで厳しいカプを定めました。 

 

クーの像(ゲッティンゲン大学民俗学研究所所蔵)

パアオはもともと神に仕える身だったので、タヒチから戦いの神クーを伴ってきました。そして最初に上陸したハワイ島のプナ地域から北部コハラに移動し、モオキニヘイアウを建てました。これはもともと5世紀ごろに、高位の首長が造ったヘイアウでしたが、それをパアオが再建。生贄を奉げるルアキニヘイアウと定め、その後の活動の拠点とし、自らはカフナとして人々の生活の隅々にまで厳しいカプを定めました。 

    

プウホヌア・オ・ホナウナウ国立歴史公園 ハワイ島コナの南にある、プウホヌアヘイアウ アロハプログラムより

ヘイアウは大きく分けて2つあります。一つはプウホヌアヘイアウと呼ばれ、最も有名なのが、ハワイ島コナの南にある、上記の写真です。ここは、カプの掟を破った人たちが、救いを求めてやって来る救済の地で、ここに来れば、カプの罰を免れる、駆け込み寺のような存在でした。

もう1つは、戦いの神クーを祀るルアキニヘイアウで、人間や動物の生贄を奉げる、厳格なカプが定められています。パアオがハワイ島北部コハラ近くに建てたものは、このルアキニヘイアウでした。パアオは、カプの掟を破ったものは火あぶりなどの刑に処すという厳しいカプを定めることによって、人々に強い恐怖心を与え、首長やカフナの権威を確実なものにしました。さらに首長(アリイ)、神官(カフナ)、平民(マカアイナナ)、そして隷属階級(カウア)と、人々を4つの階級に分け、明確な身分制度を定めたのです。

私はこれまで、厳しいカプは最初からハワイの社会に存在していたものだと思っていました。それは大きな間違いで、パアオがやってくる前は、ハワイはアロハの世界だったのです。死の処罰に繋がる厳しいカプ(マナの高い人の影を踏んだだけで死刑になる、男女は同じ席で食事をしてはならない、バナナや豚、椰子の実などは女性が食べることを禁じられていた、他多数)は、最初から存在したわけではなかったのです。(しかし一方で、厳しいカプもマイナス面だけではなく、ある時期の魚の禁漁を定めたりして、環境保全などのプラスの面もありました)。

パアオがハワイにやって来て以来、カプを破った時に受ける天罰や死におびえる生活が500年近く続いたハワイの人々です。いい加減カプの苦しみから逃れたいと思っていたところ、1778年ハワイへやって来たキャプテンクックを、豊穣の神ロノと間違えて、歓待した心境は察するに余りあります。

ロノ神は豊穣や癒しをつかさどる神であり、白い布がその象徴とされています。ちょうどロノ神を祀るマカヒキの祭りの時期に、偶然クックは大きな白い布の帆を上げてハワイへやって来たのです。それをみたハワイの人々が、「ロノ神がやって来た!カプで縛られる苦しい生活から解放される!癒しの神ロノがやって来たのだ!」と大喜びしたのは無理もありません。

(ただその後、キャプテンクックは殺害されることになりますが、その話はここでは割愛します)

            

 〔ロノ神の象徴とされた白い布〕※アロハプログラムより

こうして史実を調べていくと、“そこに起きた事柄には必然性がある。必ず原因となることが存在したのだ”とつくづく思います。ということは、私が謎と思っている、“ヘヴァヘヴァが最高位のカフナの立場を捨て、ある時突然キリスト教に改宗した”ことにも、必然性があったに違いない。私が以前感じたような、『謎に包まれたヘヴァヘヴァ』ではなく、そこには何か確実に原因があったのだろうと思い始めました。

次回は、そんなヘヴァへヴァの謎解きをしたいと思います。

参照した書籍

『Hawaiian mythology』 by Martha Beckwith

『NANA I KE KUMU  look to the source volume II 』

By Mary Kawena Pukui,  E.W.Haertig, M.D. , Catherine A. Lee

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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