大人が読みたい愛蔵版 修了生の小松原宏子さんが『ピーター・パン』の完訳を担当
All children, except one, grow up.
これは誰もが知る名作『ピーター・パン』の冒頭の一文だ。皆さんはどんな日本語の訳で覚えているだろうか?
2024年11月に書籍『ピーター・パン〈ミナリマ・デザイン版〉』(静山社)が出版された。同書の完訳を担当したのはJVTA修了生の小松原宏子さん。小松原さんが原作の完訳に取り組む際、資料として図書館から集めた過去の翻訳本は20冊以上、特にじっくりと時間をかけたのが、冒頭の一文だという。
「子どものころ、私は石井桃子さんが翻訳した『ピーター・パンとウェンディ』(福音館書店)が愛読書でした。特にウェンディが好きで、彼女が最後に大人になりネバーランドに行けなくなってしまったことが本当に悲しかったのを今でもよく覚えています。今回もこの1冊はずっと手もとに置いて翻訳に臨みました。冒頭の一文はピーター・パンという作品の象徴ともいえる大事なフレーズです。借りてきたすべての本で訳文を確認し、一覧表を作って検討しました。直訳だと『一人を除いてすべての子どもが大人になる』ですがちょっと分かりにくい…。また大人になった今、『大人になれないまま亡くなる子どももいる』といった複雑な想いもよぎったりもしました。この作品では大人になることは残念なこと、悲しいこととされていますが、今読み返すと大人になれることは幸せなことと感じます。悩んだあげく、私は2文に分けて訳文を作りました。」(小松原宏子さん)
子どもは、だれでもいつかはおとなになる。たったひとりをべつにして。
(小松原さん訳)
小松原さんが〈ミナリマ・デザイン版〉の愛蔵版を手がけるのは3冊目。これまでに『不思議の国のアリス&鏡の国のアリス』と『美女と野獣』と完訳を手がけた。このシリーズの特徴は原作を省略することなくすべて訳すこと、さらに物語の世界を堪能できるフルカラーのイラストと随所に添付されている地図や新聞記事、指で回して楽しめるアイテムといった楽しい仕掛けにある。小松原さんは『あしながおじさん』や『若草物語』など往年の児童文学の編訳も多く手がけるほか、自身も児童文学作家として『青空小学校いろいろ委員会』シリーズ(ほるぷ出版)など多くの本を執筆している。編訳とは、子どもたちも理解できるように、オリジナルのエッセンスを入れながら、要約して短くまとめるという手法。多くの人が親しんできたピーター・パンは、この手法によるものだ。小松原さんも多くの編訳を手がけており、世界の童話をセレクトした『名作 クリスマス童話集 かけがえのない贈りもの ~Gift~』(いのちのことば社)が発売されたばかり。
「一般に知られているアニメ映画や児童書のピーター・パンは勧善懲悪の物語ですが、子どものころにすでに完訳を読んでいた私には少し違和感がありました。原作では人物のもっと複雑な感情やキャラクターも描かれています。原作のピーター・パンは生意気でちょっとひねくれたところもあり、お母さんに対しても複雑な感情を抱いています。また、悪役のフック船長にも実は育ちが良いエリートだった過去や自らの行動が卑怯なのではないかと葛藤する部分もあって同情してしまいました。ティンカー・ベルはピーター・パンと仲良くするウェンディに嫉妬して意地悪をするなど、実は結構シュールな物語なのです。初めてこの世界に触れる人は少し驚くかもしれません。でもだからこそ大人になってから改めて読むと面白い1冊だと思います。ウェンディの両親について物語の前後に多く語られているのも興味深い点です。」(小松原さん)
原作が書かれたのは、1900年代初頭で100年以上前だ。長い間親しまれてきた名作にはこれまでに多くの翻訳本がある。小松原さんもこうした多くの名作に魅了された読者の一人だが、翻訳者として向き合った今回、この時代ならではの特徴に悩まされた。
「古い時代の作品にはよくあることですが、地の文の中に作者がちょこちょこ顔を出すんです。あらすじの流れのなかで『ぼくはこう思うよ』などと急に読者に呼びかけたり、自分の意見を述べたり…。子どもの頃に翻訳本を読んでいた当時はこのようなスタイルも珍しくはなく特に気にならなかったのですが、現代ではあまりしない手法ですので、自分が執筆するときは第三者に徹しています。ですから今の読者が違和感のないように文体を調整しました。また、ギャグや詩などの訳も時代に応じてそれぞれの翻訳者が工夫を凝らしてきた部分です。私もさまざま訳文を比べながら現代の読者を想定し真似にはならないよう、自分の言葉を選びました。歌の歌詞も悩みどころの一つですが、ここは映像翻訳のスキルの出番でした。」(小松原さん)
オリジナルの英語には当時の背景や環境、状況を説明するといった多くの注釈がついており、該当箇所をすべて調べるためにかなりの時間を要した。古い表現もあり、当時のイギリスの階級社会や男性中心の風潮なども描かれている。大好きだったウェンディのセリフにも1点、考慮すべき点があったいう。
「ウェンディはネバーランドでお母さんとして6人の子どもたちの世話をしています。ある時、山のような繕い物をしながら、両手をあげて『ああ、結婚していない女のひとが羨ましくなるくらいだわ』と言いながらその実ちょっと嬉しそうな顔をしている、というシーンがあるのですが、ここの原文には未婚女性への揶揄や見下しが感じられる古い単語spinsterが使われています。ウェンディのこの言葉には愚痴のようで実は専業主婦の優越感のようなニュアンスも含まれているのです。これは時代も色濃く反映されていると思いますが、現代の価値観には合わないので、『こんなことをしなくてもいい人がうらやましい』と少しぼかした表現にしています。」(小松原さん)
子どもの頃に大好きだった名作に、大人になった今一言一句に至るまで再び深く向き合うのは、翻訳者ならではの貴重な経験と言える。児童書の翻訳や執筆に役立っているのは、やはり、自身の子どものころからの豊富な読書体験だという小松原さん。アニメやミュージカルでピーター・パンに憧れてきた人もぜひ原作の世界観に触れてみてほしい。大人になった今だからこそ楽しめるリアルで奥深い世界に出会えるはずだ。
◆ピーター・パン〈ミナリマ・デザイン版〉
J.M. バリ 作 / ミナリマ デザイン&イラスト / 小松原 宏子 訳
公式サイト:https://www.sayzansha.com/book/b654414.html
◆児童文学作家として精力的に執筆する小松原さんの人気シリーズ
【ジュニア版】青空小学校いろいろ委員会(全10冊 ほるぷ出版)が発売中
4年1組のクラスメートがさまざまな「委員会」で活躍します。
好評により、続編となるシーズン2の制作も決定。
公式サイト:https://www.holp-pub.co.jp/search/?genre_no=18011
◆小松原さんが編訳を担当
「名作 クリスマス童話集 かけがえのない贈りもの ~Gift~」
(いのちのことば社・フォレストブックス)が発売中
『フランダースの犬』『賢者の贈りもの』『雪の女王』など名作5作品を収録。
公式サイト:https://www.wlpm.or.jp/pub/?sh_cd=114796
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